見出し画像

2022年 新年の挨拶と抱負のような何か

 改めまして明けましておめでとうござります。義実家で年越しをして2日に自宅へ戻り、上の写真のようにガルパンのマグカップでハニーミルクラテを飲みながらこれを書いてます。

 年が改まるというのはなんとなく節目であって、なんか気分も新たになる、ような気がするわけでして、それがめでたいということでありましょうな。どちらかというと一年が無事に終わったことのほうがめでたいので、暮れましておめでとうございます、というのを大晦日にやった方が良いような気がしないでもありません。

 さて、年始ということで抱負のようなものが豊富にあるわけです。そのようなものを放屁とともにお届けしようと思います。

変わらずに変わっていく

 わたくし、いつのことだったか、人生の中期計画みたいなのを立てること自体をやめた。なぜなら、先のことがまったく見えないから。三年後こんな感じになりたい、みたいなことを言っていても翌月まるで違う方向に舵を切ったりするもんで、自分で呆れて、ダメだこれは、そういう目標みたいなものはまるで役に立たん、と思ったわけですね。

 で、そのときに、「明日は明日の風に吹かれよう」と決めた。目標は「常にその時の自分に素直に行動する」というただ一つ。それがどっちを向いているかはわからない。例えば前進していて、180度ターンして前進すると元来た道を戻っているわけですね。でも顔が前を向いている以上それは前進である。ベクトルがどっちを向いていようと、矢印の方向が前である。そういう発想であります。路線変更が俯瞰したときに後退であっても、前を向いて後退するという意思。

 なんだろうねこの無駄なかっこよさは。よく考えると何もかっこいいわけじゃないのだけどかっこよさそう。その時信じている道を進むのである、と決めたんですね。どこかのタイミングで。そしてもう一つの目標が「昨日の自分よりも何か一つ前へ進む」というもの。知らなかったことを知るでもいいし、できなかったことをできるようになるでもいい。もっと言えば知ろうとして本を読むでもいいし、できるようになろうと練習を始めるでもいい。何もしないよりも何か前へ進む。ほんの僅かでも。

 そんな風に決めたのは二十代の中頃だったと思う。あまりにも人生が二転三転しすぎてわけがわからないため、何か将来的な目標を持っても意味がない、と感じた。それで、昨日より今日、前へ、前というのは顔が向いてる方という意味での前へ、進む。それだけでいいと決めた。そして今ここにいるわけだけど、これがその二十代の中頃の自分から見てどういう位置なのかはもはやよくわからない。たぶん空間的にだいぶ捻れた位置に来ている気はするけれど、信じた道を進んできたし、日々一歩ずつ、前へ進んで来られているような気がする。一日の前進がわずかでも、それがもう二十年にもなるとかなりのものだ。当時まるっきりできなかったことが今はいくつもできる。当時の自分に言っても絶対に信じないような仕事をしているし、まして小説なんか書いている。25歳のわたしは絶対に信じまい。

 というわけで今年も、その姿勢を変えない。自分がどんなふうに変わっていくことも許容する、という姿勢を変えない。今年も相変わらず、わたしは変幻自在に変わっていくでしょう。

新しいことをやる

 実はやろうと思っていることがある。これまでやっていないことで、やってみたいこと。それを今年始めるべく、今準備をしている。わたしは万端整うまでスタートしないという堅実なタイプではないが、丸腰のまま前線に出ていくほど無謀でもない。とりあえず戦えそうな準備だけ整えたら発進するつもりでいるけれど、今まだその準備が整っていない。それを早いうちに整えてスタートしようと、考えている。これについては動き出したらあからさまにわかる形で宣伝すると思うので、わたしに興味があるという酔狂な方はぜひ楽しみにしていてください。

続けたいことをやる

 今わたしにとって一番重要な活動は小説を書くこと。そうは見えないかもしれないけれど実はそうで、これまでいろんなアートや表現をやってきて、自分が一番面白いと感じるのが文芸なので、これをもっと掘り下げていきたいという思いは相変わらずある。他にもやりたいことがあるのでやっているけれど、なにか一個だけ残すならやはり小説になるだろう。これはコンスタントに続けていこうと思っている。書きたいものは後から後から出てくるし、出してみたい公募もあるので挑んでいきたいと思う。
 単なる作品置き場としてしか使っていなかったカクヨムで最近わたしの作品を紹介してくれる方が現れ、そこから読んでくれる人が増えたりしているので、もう少し積極的に参加してみようかなという思いもある。

しゃべる

 おととしスタエフを始め、昨年それをPodcast化し、年末にスタエフでもっとライトなのを始めたのだけれど、話すコンテンツは書くのとはまた違う面白さがあるし、なにより作るのが楽しいので続けていこうと思っている。Podcast で話したけれど、スタエフは朝のコンテンツ、Podcast は夜のコンテンツという棲み分けで、けっこう違う内容をやっていこうと思う。スタエフはなるべく毎日(と言いつつすでに新年2日間できていないのだが、これには義実家の電波状態が悪くてスタエフアプリが起動できなかったという言い訳が一応ある)何かしら配信しようと思う。でもお聞きいただいている方はおわかりのように、スタエフでやってるのはほんとにどうでもいいような朝の挨拶だけみたいなもので、今日は何をする予定です、みたいなことをしゃべるだけ。このぐらい緩ければ続けられるんじゃないかという目論見。起き抜けに何かしらしゃべる、という感じですね。
 Podcast の方は文芸よりの話題を中心に、読んだ本の紹介みたいなことをやろうかなと今のところ思っている。

好きなようにやる

 わたしは四十代の男性であるので、おっさんである。おっさんであるということは絶望的な状況であり、いろんなものが無に帰す。おっさんがそんなことをしても寒い。おっさんながそんなことをしても意味がない。おっさんがそんなことをするのはキモい。おっさんであるというのはそれだけでいろんなものが終わるハイパーステータスなので、これが自分への言い訳にもなりがち。おっさんだから別にいい。おっさんだからしょうがない。自分が行動しないことの言い訳にしやすいのだ。

 その状況に異を唱えよう。

 おっさんだけど女子高生のお話を書きたい。おっさんだけどレディースの服を着たい。おっさんだけどハーブティとかアロマとかに凝りたい。
 もしかしたら自分はノンバイナリなのかもしれないと最近思う。もともとあまり男女二元論ではない発想ではあるしそういう作品も書いてきたけれど、自分自身がノンバイナリだという認識はなかった。思えば若い頃から女性のコスプレをしたり、中性的な髪型や服装を好んだりしていたような気はする。完全な女装をしたのは半ばネタではあったけれど、それも割と楽しくはあった。(※このような状態はノンバイナリではなくXジェンダーかもしれない。この辺の区別は難しく、こと自分がどこなのかというのは自分のことがよくわからないのも相まって判断を迷う)

 二十代の頃はそういうのはネタぐらいにはなったけれど、おっさんがやると「キモい」にしかならないような気はする。でもおっさんに甘んじていいのだろうか。キモいって言われるからやらない、という姿勢でいいのだろうか。
 自分がおっさんであるという事実は揺らがないけれど、おっさんだからという理由でいろんなものを投げるのは逃げでもあるような気がした。それで、今年はもう思いきり好きなようにやることにする。キモかろうと知らん。キモいと思う人は離れて行くだけだろう。それはそれでいい。

とどのつまり

 うだうだと3000字以上にわたって書いてきたけれど、結局何が言いたいのかと言えば、「マイペースにやる」ということに尽きる。なんだそれだけか。それはもうずっと昔から一貫してわたしの生き方そのものであるし、今年もそのままであるということに他ならないではないか。

 それでもなお、こうして文字にして残しておくことで、後で振り返ったときになにか感じるものがあったりする。だから書いておくことにも意味はあるだろう。

 わたしは今年もわたし。わたしらしく。晴れよりも雨を、太陽よりも月を、朝よりも夜を、光よりも陰を好むわたしらしく。邁進していきたい。

 こんなわたしに何かしらの興味を持ってくださる方はぜひ、仲良くしてください。なにかのきっかけで絡んでくれると喜びます。

 今年もよろしくお願いします。

いただいたサポートはお茶代にしたり、他の人のサポートに回したりします。