見出し画像

[戯言戯言日記] わかさ とくれば いも

9月12日

 若さについて考えている。

 若い人を見て、まぶしいなと感じることがある。元気があって、希望に溢れていて、輝いて見える。ああ、いいな。若いな。と感じる。

 自分を振り返ってみる。わたしもかつて若かった。若いわたしは元気があって、希望に溢れていた。輝いて見えていたかどうかは知らない。今はどうなのかと考えてみると、今のわたしは元気があって、希望に溢れている。

 あれ。何も変わっていないのではないか。

 そう思ってみると、何も変わった気はしない。わたしが二十歳だったのはもう四半世紀近く前のことなのだが、二十歳のわたしと今のわたしは地続きで、どこかで大人のドアを開けたりはしていない。常に同じようなマインドで過ごしてきた。二十歳どころか、もっとずっと前から。

 若さとはなんだろう。とたんにわからなくなった。

 まっすぐで晴れやかで一生懸命な姿勢。若い人のそんな姿をまぶしく感じる。でも自分だってそういうものを些かも失ってはいない。ただ年をとると「まっすぐ」が「周りが見えていない」と評され、「晴れやか」は「ノーテンキ」、「一生懸命」は「やぶれかぶれ」に見られたりする。

 なんだ、外野の問題か。

 年をとって失われる「若さ」というのは自分の一部から剥がれ落ちていくのではなく、外からの評価軸が変化することで自分の表面に貼り付いていた評価の中から失われただけなのではないか。

 本来、若いというのは比較語であるから、比較対象に対してどちらが若いという話でしかないはずだ。四十歳は三十歳よりは老いていて、六十歳よりは若い。冒頭に「若い人」と書いたが、これは「何に対して」若い人なのだろうか。思えば「若い人」と書いたときに、誰より? という疑問が出てこないのはむしろ不自然なのではないかという気がしてくる。

 一般的に「若い人」と言うと十代後半から二十代前半ぐらいを指すような気がする。そんな定義があるわけではなく、慣例的な何かであろう。この暗黙の「若い」が「若さ」という奇妙な認識を生んでいるような気がする。

 例えばおっさんがよく使う「最近の若い人」。わたしもおっさんであるので使ってみよう。「最近の若い人はこういう傾向があるよね」とかいう話をする。この言葉をわたしが同世代の人に向けて発する場合、三十歳ぐらいの人に向けた場合、二十歳ぐらいの人に向けた場合、それぞれどんな意味合いになるだろうか。

 同世代の人とであれば、だいたいおそらく「最近の二十代ぐらいの人」という意味合いになるだろう。三十歳ぐらいの人もおそらく自分は「若い人」にはもう入らないと思っているので、「最近の二十代前半ぐらいの人」というあたりになる。相手が二十歳ぐらいだった場合、「最近の若い人」には自分も含まれる、つまりは、自分についても「こういう傾向があるよね」と言われている、そのように受け取るのではないか。

 ここに比較の「若い」を一般化したことによる無理が生じている。奇妙な一般化によって生じた「若さ」という概念が、はっきりした定義を持たないままうやむやに蔓延っているのだ。

 「わたしはもう若くない」。何より? あるいは誰より?

 わたしは若い。明日のわたしよりも。生きているわたしにとって、今が一番若い。時間が不可逆に進む限り、わたしが今この刹那よりも若くなることはない。いつだって、今が一番若く、一番新しい。


いただいたサポートはお茶代にしたり、他の人のサポートに回したりします。