[映画]ザ・ピーナッツバター・ファルコン

 今夜のU-NEXT は『ザ・ピーナッツバター・ファルコン』。2019年の作品。

 誰かを守るとはどういうことなのだろう。危険から遠ざけ、リスクのあることは何一つさせない。苦労しそうなことはさせない。何も頑張らなくていい。外に出なければいい。果たして、それは「保護」だろうか。

 身寄りがないために高齢者施設に収容されているダウン症の青年。ダウン症であるため、健康ではあっても社会生活を営むのは難しい。家族がいなければ普段面倒を見てくれる人がいないため、仕方なく高齢者施設で「保護」されている。彼はある老人の部屋で、古いプロレスのビデオを見るのが好きだった。憧れの悪役レスラーが登場するそのビデオを、彼は好んで何度も繰り返し見ていた。

 ある日ついに彼は蜂起する。プロレスラーになるという夢を追うため、施設から脱走するのだ。脱走劇の途上で、漁師仲間とトラブルを起こして逃げている青年と出会い、共に旅をすることになる。本作はこの奇妙な二人の逃避行であり、バディ・ムービーで、なおかつロード・ムービーでもあるといった感じの作品だ。

 作中でのこの主人公の扱いを見るにつけ、「保護する」とはいったいなんだろうと考えさせられる。病気だからあれができない、これができない。こういうことはできないからやらせると危険。本人の安全のためにやらせない方が良い。すべて、一理ある。しかし裏返すと、一理ぐらいしかない。初めから「できない」と決めつけてさせないのだから、できるはずがない。誰もやらせてみた人がいないから、本人もやったことがない。やる前から挑戦することさえ許されない。こうしたことは、何もダウン症に限ったことではなく、様々なところで行われている。「保護」という名の牢獄に囚われているようなものだ。

 何もできるはずがないと思われてきた主人公。できるかどうか試すことさえも許されない環境に置かれてきた。それはいったいどんな閉塞だろう。「わたしは彼のことをウスノロだなんて言わない」。その、バカにしていない、という単にそれだけのことを、「尊重している」と錯覚してしまう現象。マイノリティに対して「理解を示そうとする」行為そのものに傲りが含まれているし、いつしかその傲りに自ら酔い、善意の押し付けが生じる。

 マイノリティ、多様性、ハンディキャップといった言葉の周辺に現れる「保護」や「尊重」という言葉は、往々にして偽善者のオナニーと化す。この作品はそのことを突き付けてくる。

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