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[戯言戯言日記]種まきと収穫

 先日「呑みながら書きました」でインプットの話を書いた。

 これを書いたのをきっかけに、インプットについて考えている。本稿では上記のnote よりも上層、上位レイヤのインプット、いわゆる一般にインプットと言ったときに想定されるような本を読んだりコンテンツを享受したりすることについて考えてみる。「本稿」などと言うとご大層な雰囲気が出てすばらしいが戯言ざれごとであり戯言たわごとである日記なので、呑みながら書いたものと大差ない。

 さて、インプットを栽培に例えてみる。例えば家庭菜園でトマトを育てよう。上質なトマトを収穫するにはどうしたら良いか。トマトについて調べ、どんな土が良いのか、日当たりは、水やりは、植え方は、などあれこれ調べる。種からまくのが良いのか、あるいは苗を買ってきて移植した方が良いのか。

 じっくり下調べをし、ベストプラクティスを積む。かくして豊かなトマトが実り、食卓をにぎわせてくれるだろう。

 これは目的意識だ。どんな収穫を得たいのかという目的意識を持ち、そのためにどうすればいいかを調べ、それを実践する。このメタファーからインプットへ帰ってくると、何を得たいのか明確にして読む本を選んだり、コンテンツを選んだり、行く場所を選んだりし、ビジョンを持って享受する、ということにでもなろう。かくして目的に沿った効果が得られ、満足が得られる。

 うむ。大変つまらない。

 家庭菜園でトマトを育てるのと農家がトマトを生産するのではまったく意味が異なる。農家は上質な収穫ができないと家計が傾くので目的意識は必須だ。しかし家庭菜園で収穫を目的とする必要はまったく無い。わたしも家庭菜園をやっているが、わたしの目的は「植えること」にある。つまりトマトを植えた時点で目的は達せられている。

 トマトを植えてみたい。ナスを植えてみたい。キュウリを植えてみたい。とりあえず植える。たいして調べもしない。適当に庭の畑に植える。この時点で目的が達成され、あとはボーナスみたいなものだ。芽が出ればもうボーナスであり、花が咲けば大喜び。収穫を目的にすると芽が出て花が咲き、実を結ぶのは当然であり、それぞれの経過は確認してホッとするものになる。いちいち喜んでいられない。なにしろまだ実が収穫できていないのだ。でも植えれば達成の家庭菜園は、以降のすべてが幸せに直結している。ちょっと頼りないトマトしかできなくても嬉しく、味がイマイチでも「さすがに自分で作るとおいしいねぇ」などと言いながら食べてずっと幸せだ。

 インプットにも目的意識は必要ない。なにかを得るために本を読むのではなく、単に読めばよろしい。面白そうだったら読めばいいのだ。それを読んで何になるのかといったようなことはどうでもいい。何になるのかは読み終えてみなければわからないのだから、とりあえず読んだらいいのだ。なにかを得ねばならんと思いながら本を読むのは苦しいし、まして目的を持って映画を見るなど極めて寂しい。

 わたしは映像関係の仕事をしているので、周囲にも「教養のため」といった理由で映画を見ている人がいる。どんな新しい技術が使われているか、どんな表現がされているか、といったことを半ばリサーチする目的で映画館へ足を運ぶのだ。それが悪いとは思わないけれど、そういう目的で見たらそれしか得られんだろうなとは思う。

 インプットにおいて目的意識は見ようによっては邪魔だ。目的周辺の情報は確実に得られるかもしれないが、ある範囲を取りこぼさないようにしようと注力することは、それ以外のものを極力無視するというところへ直結している。おそらく両立はできない。

 ぼんやりした状態でインプットを得ると、何が大切かとかどれが必要かとかそういったあれこれがうやむやになり、もっとフラットな状態で入ってくる。入ってくるものはそのまま入れておけばよい。きちんと整理しようなどと思う必要はなく、頭の中は雑然とさせておけばいいのである。わたしなど部屋も雑然としているが、雑然とした状態はカオスにつながり、秩序の中では絶対につながらないところへシナプスが接続される。

 とどのつまりわたしのインプット法はこれで、つまり無法ということだ。完全に無法地帯であり、カテゴライズもなければ整理もない。目的意識などまったくなく、とりあえず何もかも楽しい。面白くない映画はなく、面白くない小説もない。

 先日池松さんとのスペースでコスパという話が出た。

 なんでも効率ということが叫ばれ、みんなコスパ重視になっている、という池松さんの問題意識があって、わたしも同感。コスパ重視は悪いことではないけれど、少なくとも面白くはない。

 ここまで読んでいただいた方はもうお分かりのように、わたしの家庭菜園はコスパが最悪であり、わたしのインプット法も不効率極まりない。何が得られるかは終わってみるまでわからず、ものすごい時間をかけたあげくに何も収穫されないことだってあり得る。

 でもわたしはそこにかけた時間そのものを楽しんでいるのでまったく問題ない。収穫が何もなくても得たものはゼロではない。

 ここで前回の話に通じるわけだが、インプットとは要するに「自分の中に何が残ったか」ということだ。何が入ってきたかは問題ではない。入ってきたものはほとんど出ていき、わずかな何かが残る。その残ったものはなんなのか、ということ。有用なものを探そうとする人は自分が有用だと思い込んでいるものしか見えない。もっとフォーカスを甘くしてぼんやりした状態でインプットを得れば、どうでもいいようなものが残るかもしれない。その何か残ったものは歯牙にもかからない何かかもしれないが、なんでそれが残ったのか考えているうちに、それは有用なものに変化していく。

 我が家にはなんだかよくわからない種を適当にばらまいた花壇がある。なんだかわからないまま水をやっていたらいろんなものが生えた。まいた種から生えたのか雑草なのかもわからないが適当に水をやっていたらいろんな花が咲いた。

 かように目的意識などまったく必要ないのである。種をまくときに収穫のことは考えなくてよろしい。種をまけばわくわくし、そのあとのことはみんな喜びにつながっている。

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