「あなたのRTにいいねしました」に生きがいを感じている異端児の話
「あなたのリツイートをいいねしました」
「あなたのリツイートをリツイートしました」
そんなTwitterの通知に心を躍らせている異端児=私の話をしたいと思う。
リツイートしかしない者の「通知が踊る喜び」
私のTweet数の9割近くはリツイートであるといって差し支えない。
自分の発言を一切しない訳では無いが、日ごとに見れば「リツイートしかしていない日」の方が圧倒的に多いだろう。
「通知の反応が欲しい」と思っている「全然呟かない人間」から見ると、「リツーイトへの反応通知」は「神機能」である。
導入当初からめちゃめちゃ反感を買い、罵詈雑言も飛んでいたこの機能に、私は「生きがいを感じ、救われ、承認欲求を満たされている」と言える。
リツーイトへの反応通知というものは、「私がリツーイトした事に意味があったよ」と「教えてくれる、認めてくれる機能」なのである。とにかく世知辛く生きる意味を見失いがちな現代において、少なくとも異端児の私にとっては、これは朗報である。
「自分がええやんと思っている推し」を「わあ!知らなかったけど良いね!」と言って貰えたら「同担拒否でなければ誰しも嬉しい」と思うのだが、リツーイトへの反応通知はそれに限りなく近しい。推しツイートが自分の1クリックによりその人に届いた(のかもしれない)という事実が、自己肯定感をアゲてくれるのだ。
勿論それは万人が得られる利点では無いが、少なくとも異端児である私にはとても有難く、ベリベリハッピーな機能なのである。
交流しない者が得る「交流している感」
交流ツールとしてTweetを使う人も多いが、私は相互さんはそこそこ居るものの「布団に丸まって顔を出さない」が如くほぼ誰とも喋らない「ぼっちスタイル」である。
勿論、話しかけてくれる人々の事は有難く、ぼっちで居たい訳では無いが、とにかく「文字を打つ」より「文字を追う」方がカロリーを消費しないタイプの人間なので、相互さんのツイートを「いいね」する程度に収まってしまいがちなのである。
大抵流れて来たツイートのリツイート主というものは意識されて居ないと思うがこちらの通知には「誰がリツーイトに反応したか」が出てくるので、「アッ……私……この人と、繋がっている……!」という気持ちを通知は私にもたらし、「交流している感」を与えるのである。
勿論相手は「毛ほども気にしていない」と思うので「勝手に親近感的なサムシングを得ているだけ」で現実には親しくなってはいないのだが、その通知は時に微笑ましく、時に感動的で、時には己の行動を顧みる材料となったりもするのである。
「あなたのリツイートを見ている人が居る」というのは、「肯定」でもあり、「監視」と取る事もできる。
いずれにせよそこには人が居て、「ああ、人がいるのだな」という事を、私は通知から感じるのである。
「よーし!もっと良いツイートを探しちゃうゾ☆」という張り切り
「勝手に」己を肯定された気になり、「勝手に」交流している気になった異端児は、よりみんなに反応される様な、ステキなツイートを探しに走り出す。美味しい果実を森に採りに行く様に、誰かへの薬を買い求める様に、タイムラインの有象無象を掻き分けるのである。
勿論、ツイートは誰かにとって良く映る一方で、誰かにとっては傷つく、不快なものであったりもする。「無意識のデマ」や「悪質な嘘」が蔓延るTwitterで、いつも正しく居る事は難しい。
誰もかれもが24時間張り付いている訳でも無ければ、タイムラインに流れているからといって必ずしも読む訳でもない。それでも勝手に心躍る異端児は、今日も元気に、時に病的に、タイムラインを読み漁るのである。
異端児のピエロは踊り続ける
リツーイトされた人が喜ぶ姿や、そのリツーイトに出会った人が喜ぶ姿を浮かべながら、時に誰かを傷つけながら、今日もピエロは踊り続ける。
そんなピエロのリツイートに傷ついた人は、「特定の人のリツーイトを非表示にする機能」の存在も、何処か心の隅に置いておいて貰えたらと思う。
どんな理由であれ、ピエロが踊る事を止める事は誰も出来ない。誰かがうっとうしく思う機能は、誰かが喜んでいる機能である。
異端児である私は、「トップツイートの機能も大いに喜び」、「表示されるツイートを美味しく食べている」。しかしながら、それを鬱陶しく思う人には、表示させない選択肢を与えて欲しいと思っている。美味しい機能は、美味しいと思う人だけが味わえば良いのである。
「誰も望んでない」「こんな機能要らない」と言われ存在を排除される異端児は、今日も元気に、ここに生きている。