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私が使わないと決めている言葉5選

言葉は多様だ。日々何処かで新しい表現が生まれたり、従来ある言葉の略称が定着して広まり使用される。親しんでいる表現も誤用の事があるので、私は「知らない言葉」だけでなく「曖昧な認識の言葉」も度々検索しては使用を改めている。

まあそんな前置きはどうでも良いのだが、日々様々な投稿を見ていて「私ならこの言葉は使わないな」という言葉があり、何となく言語化して整理しておきたいと思ったので今回書いてみる事にした。

あくまでも私が使わないだけで、「人が使う事の批判ではない」ので取り違えのない様にしていただきたい。故にそれらの言葉が用いられていたとしても賛同する事はあるので、その支持や拡散を指して矛盾やダブスタだとされるのも困る事は明言しておく。

ひとまず下記に一覧と目次を置いておく。列挙順に意味はないので、気になるものから見たりつまみ食いして貰って構わない。また、これを機に「自分はどうだろう」と考えてみるのも楽しいかもしれない。

最初は10選が8選になり、最終的に5選になった。厳選ではなくめんどくさくなっただけである。また思い当たる言葉があったら新しい記事として書くかもしれない。

【一覧】
〇 絶対に使わない言葉
・1「〇〇から(人生)やり直せ」
・2「どっちもどっち」
・3「そんなんだから〇〇なんだ」
・4「ああいう人間にはなりたくない」
・5「〇〇の1人として」

〇 用法容量を守って使う言葉(オマケ)
・「クソ」
・「○○失格」

1「〇〇から(人生)やり直せ」

これについては「意思として使わない」というよりは「そもそも使う発想がない」という方が正しい。のっけから主題と反していてどういう事だよとなるが、「人生やり直した所で同じ道を辿って同じ事をするだけでは?」という気持ちになるからである。

このワードが使用される想定としては、「凄い愚かな言動をしている人物に対して、その言動を叱責する」という場面だと思うのだが、この言葉には「やり直さなければ治らない」というのと「人生の環境によって結果が変わる」という意味合いが含まれている。

で、それ自体は別に良いのだが、生まれ変わった後もう一度人生を生き直す上で「また歪まない様に直接サポートしたり、良くない環境を是正したりする」のなら分かるのだが、多分そんな慈愛の気持ちで使われているケースというのは中々無いと思うので、単純に突き放す為だけの言葉の様に見えるのである。そして、突き放す為の言葉は別にいくらでも表現があるので、わざわざこれを使う気持ちにはならないなと私は思うのである。

ただまあ時代というのは少なからずアップデートされているものなので、もしこの人生のやり直しというものが「時間軸の巻き戻し」ではなく、「現代(令和)の〇〇として新しい人生を歩みなおせ」というのであれば、少しは違う地点に辿り着く可能性はあるかなと思う。

なので「〇〇として私の扶養に入ったらきちんと教育してあげられるのに!」という文脈なら個人的に頷ける。頷いても私は使うことは無いのでどっちにしても変わらないが。

まあこんな感じで延々言葉を使わない理由の持論を展開していくので、「おもんないな」と思ったらこの時点で読むのを辞めた方が良いと思う。なにせ私の記事は無駄に長いのだ。

2「どっちもどっち」

これは「思考と表現の放棄」なので使いたくない、という理由になる。私は頭を使い考えに考え抜きたいという人間なので、思考放棄はしたくないから使わないという単純明快な理論である。

この言葉を使うケースというのは、何か争っている人物がいて、その両者の意見を自分なりに集めて考えてみた外野の人物が、「どっちが正しいとかどっちの味方とか言え無くね?」というご判断の元に繰り出されるものだと考えている。両者の意見に甲乙つけがたいという状況よりは、「どちらの賛同もしたくない」「この話題には深く関わりたくない」という突き放しのニュアンスが強い言葉だ。

別に支持を明確にしなくとも自分の意見を言う事は出来るのに、敢えてそう言う事で「どちらにも流されない私」をアピールしている様に見える人も時々いる。まあそれは私の偏見だが、そういった偏見をこの言葉に対して持つ人が居る事を身をもって知っているので、私は使わないという事である。

思考放棄は最高の省エネであり、どんどん活用して欲しいのだが、そもそも「どっちの肩も持たないよ」という明言がその人にとって必要で、そう表明をしているのだろうか、という点も疑問としてある。

争っている両者や、もしくは別の人物に意見を求められた時、モヤモヤするので"敢えて"人の目に映る場所で言語化し立場を明示しておきたい時、こういう意見の人間も居るよとアピールしたい時、などは有効になるだろうが、「どっちの肩も持たないと言うと双方から攻撃されたり敬遠されるリスクがある」ので、思考放棄した末にそのリスクはデカすぎやしないか?と思ってしまうのである。

またどちらかに肩入れしていないという事を表現するなら、この文言を入れなくとも両者に思った意見だけ述べれば済むので、そういう意味でもこの言葉は使わないなと個人的に思う。

「どっちの肩も持たない○○さんスゲー!」と称賛する層も一定数いるだろうので、そういった層への手っ取り早いアピールには有効だと思う。7文字で立場が明示できるので、特に短文のツールでは有利だ。折角の言葉なので使うなら大いに有効活用して欲しい。

3「そんなんだから〇〇なんだ」

はい出た。出ましたね。ええ。まあボカしてると分かりづらいのだが、「因果関係の無い項目を用いて他者を揶揄する」という文脈である。批判ではなく揶揄である。ちなみに揶揄の意味を検索してみたところ「からかう・嘲弄」などが出てきた。批判の意味について気になる方は自分で調べて欲しい。

因果関係が明確でないにしろ、「それが理由では……?」みたいな事例はままある。私は昔「何もしていないのに恋人にフラれた!」という話を見て、「何もしていないからフラれたのでは……?」と思ったりした事もある。マイナス事案が起きて居なくても「プラスの事が起きていない事自体がマイナス」として評価された、という可能性がある。まあその真偽や妥当性は置いておいて、「だから○○なのでは?」という疑問は提示しても、断定までは出来ないと思うのである。

また基本的にこの言葉を投げかける相手との人間性は良くないと思われるので、相手が「わかりました!!改善します!!」となり「改善したけど○○から抜け出せないじゃないですか!!どうしてくれるんですか!!」などと絡まれたらとてもウザいと思うので、そういったリスクを避ける上でも使いたくない表現である。それはそれで愛嬌のある反応なのでそこから仲良くなれるのかもしれないが。

まあどうしようもない主張をしている人が居たとして、その人物が更に良くない状況にあり、それから抜け出したいと本人が思ってすらいる時に「その主張が足かせになっていてその人の為に指摘したい」と"善意で"思ったとして、こんな物言いをしたら逆効果である。善意でこの言葉を言う人がいるとは思えないし、勿論これきっかけで意識が変わるという事もあり得なくはないが、傍目から見た印象が最悪なので、私は使いたくないなと思う。

例えばこの後に「だから改善する為に○○しよう。協力する」みたいに今後についての内容が続いていれば分かるのだが、大抵の場合これも突き放しで使われるので救いがない。かなしい。

ただ断言系はとてもキャッチーで人気があるので、それなりに指示は得られると思われる。バズる、と言ってもいいが、その為にマイルールを破りたくはないな、というのが個人的な想いだ。

4「ああいう人間にはなりたくない」

まあ何か大体流れが見えてきたが、これも突き放しの言葉である。もう説明省略しても良いのでは?という気がしてきた。

これに関しては「別に相手も"そう思われたい"とは思っていないのでは?」の一言に尽きる。あとまあこれもだが、この後に「だから○○(予防策)をする」と続くのなら分かる。人生設計においての反面教師として有効活用する、という考え方だ。

一度きりの人生なのだからなるべく失敗しない様に対策を講じ、そして「その為に良くない例を収集する」というのは良い事だと思う。とてもポジティブである。対して私が想定する状況は「見たくないものを見てしまって"うわぁ"と思った」という感想を述べるという文脈なので、「塩をまく」という表現に近しい。感想を述べるのは自由なので別にどうでも良いのだが、そこで終わってしまったが故に知らず知らずの内にそういう人間になってしまったらめっちゃ怖い。怖くない?そしてそうなってしまった人間は気づかないのである。怖い。

考えるのはめんどくさいので、思考放棄の省エネ万歳なのだが、やはり私は考えたいと思うので、そういう発言はしたくないなと思うのである。人間、何気に自分で発した細かい言葉にも影響されがちなのである。エビデンスとかは知らんけど。

5「〇〇の1人として」

みんな一度や二度や十度は聞いた事があるやつだ!そろそろ書くのが面倒になってきた。私の集中力はそんなにない。

まあ別段これを使う方々をどうこう思ったりはしないのだが、「何を持ってこようが1人の人間の言葉である事は変わんないじゃん?」と思うのである。突き詰めると結局「私の意見」でしか無いと思うのである。

確かに、例えば差別問題とか実際に起こっている障壁などを語る場合には「当事者」と「それ以外」では"見える世界が違う"ので「当事者の意見とそれ以外は分けて考えるべきだ」という点はあるだろう。ただ、当事者も1人だけでは無いし、それぞれ違った人間なので考え方も多様だ。また専門か門外漢かという事が重要な話の場合、立場を明確にする事は重要というのは勿論だ。

ただこのフレーズを使う時というのは、そもそも「持論を述べる時」であり、「立場を事前に明確にしている」場合がほとんどなので、「わざわざ改めて印象づける事の意味」というのは、それなりに考えてもいいのでは無いか?と思うのである。

そしてこれは受け手の問題なのだが、このフレーズは「1人」の部分より「〇〇の」という所に着目されがちになるので、「〇〇の人が言ってるから間違いないはずだ!!!」「これが〇〇の人の総意だ!!!」と誤認されやすい。「あくまで〇〇全体の中の、1人の見解です」という意味を込めたいのなら、略さずにそのまま全て言うか、文字数が問題なら「私の意見です」だけで終わりにしたい。

真相の程はよく知らないが、最近、大学生とやり取りをする人の発信で「"いかがでしたか"という文言がよく使われている」というtweetがあった。まとめ記事などで頻繁に目にする用になったフレーズだが、これが一般的な決まり文句の様に使われているらしい。「いかがでしたかを使いましょう!」という啓蒙書籍やセミナーが出回っている訳ではたぶん無いと思うので、ネット仕込みで定着したのではないか、と勝手に思っている。

何が言いたいのかというと、この「○○の1人として」という文言も「決まり文句として入れているだけなのではないか?」という事である。私は疑り深い、とてもめんどくさい人間なので、そういう小さなことが気になるのである。あと単純に反骨心があり、自分が入れる必要がないと判断したものは省きたいので、この言葉は使わないなと思うのである。

どうせ使うなら、「銀河系に住む生物の一員として」とか「地球上に生きとし生ける生命の1人として」とかスケールの大きい事を言って笑いを取りたいと思ってしまう。たぶんこの世に生きるのが向いていない。自覚はある。

このフレーズを使う時には切実に伝えたい事があり、それは切実に伝わって欲しいと思うのだが、ただ私はこの言葉は使わないという話だ。


〇 用法容量を守って使う言葉(オマケ)

オマケ1「クソ」

使わない話だけするのもどうかと思うので、私が用法容量を守って使うことにしている言葉をオマケとして書く事にする。

エントリーナンバー1は「クソ」である。大前提として、面と向かって当人に言う事はしない。用例は3パターンある。

まず1つめは、人ではなくモノや出来事に対しての形容詞として使うパターンだ。「クソみたいな味」とかいうやつである。勿論、クソみたいな味だという感想を、作った人なり生産者の方に対して言うのはNGだ。「ドリンクバーでAとBを混ぜたらクソみたいな味になった」とか、「(何があったとは言わず)クソみたいな出来事があって超ブルー」みたいな感じの時に私は使う。

2つめは、その相手を知らない人に対してや、自分の中での気持ちの整理の呟きの際に人間に対してクソというパターン。「毒親」みたいな感覚に近しい。「クソ上司」なんていうのも世の中ではよく使われていると思うが、当人に伝わらないから言えるやつである。己の気持ちを浄化させる為、自分を守る為に相手にレッテルを貼るのである。それとは別に、単純に正しく状況を説明する為に分かりやすくする場合もある。

3つめは、親しい仲の人物からの愚痴エピソードに対して使うケースだ。「なにそれクソじゃん」みたいなやつである。「クソじゃね?」「クソだわ」とお互い言い合う場合もある。「胸くそ悪いの略」としての用法に近い。

ざっくり出しただけなので他にもあるかもしれないが、その様な時に私は「クソ」という言葉を使っている。

オマケ2「○○失格」

用法容量を守って使う言葉、エントリーナンバー2は「○○失格」である。

基本的に私に何かを判定する権限などは無いと思うので、失格だろうが合格だろうが判定する事はまず無いのだが、これをどうしても使わなければいけない場面というのが存在する。

それは自分を責めすぎている人がいて、その理由がその人ではなく別の人物にあった時、別の人物が悪いのだと印象づける為に使うケースだ。
例えば「医者に酷い対応をされた」「けれどもお医者さんは絶対正しいはずだ」と思っているが為に「悪いのは自分なんだ」というループにハマり苦しくなってしまっている人に対して、個人的な意見として申し訳ないがそう思う、と私は伝える。

「失格」というのは「全否定」に近しいので、よっぽどの事が無いと使えない言葉だと思うのだが、例に出したような自責無限ループに陥ってしまっている人にはやんわりした表現では響かないので、強い表現として失格を拝借する事がある。勿論、これ以外の言葉や表現が押し付けになっていない事が前提だし、当人に対してや風評被害が想定される状況では使わない。

それ以外の場合、私が「失格」と誰かを勝手に判定することは無い。あと、理想や模範となる○○像が無いと意味の無い言葉なので、「人間として失格」とは絶対に言わない。
人間である事の合否(適正)とは一体何なのか。小説のタイトルとして知っているからキャッチーに使ってしまうだけではないのだろうか。とめんどくさい私は考えるのである。

おわりに

色々書いてみたが、「突き放し」とか「切り捨て」が嫌いな己の人間性が垣間見えて、非常に有意義だった。

もしこれを見ている人が私と繋がっていて、私が今後このような言葉をドンドコ使うようになり始めたら、すぐさま見限ってくれていい。
「あの頃のキミはもう居ないんだね……」と切なげな言葉を最後に投げかけてブロックしても良い。その分良い人間関係を構築して欲しい。

そしてあくまでもこれは私の考え方なので、これにより何か思う事があれば、それは各々言語化して消化して欲しいと思う。