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完璧ではない事を見せる難しさ
昔から何かと良く見られがちな人間だった。
良くないと思われそうな事を判別して隠すのが得意だからかもしれない。人間は完璧になどなり得るはずは無いし、「人類はみな等しく愚か」だと私は思っているが、多くの人にとってはそうでは無いように見える。
良く見られる事に「重荷を感じてはいない」し、「そう思われたくないという気持ちも無い」。そう思う人々が、本当の自分を見ていないと思ってもいない。
ただ、「良く見られがちな私」が「ダメダメな所を公にする」行為をした時、「そう思っている人々にどの様な影響を与えるのか」という事は気に掛けてしまう。
「輝いていると思っている人が普通の人間だと知った時」、「安堵する」人と「絶望する」人とが居る事を、私は勝手に想像する。それ以外にも「自戒する」人や「嘲笑する」人なんかも居るだろうし、「無関心」でスルーする人だって沢山いる。
安堵も絶望も自戒も嘲笑も無関心も、どう反応するかは人々の自由だけれども、とても傲慢な私は、その端っこにいる弱い人々の事を考えてしまう。
神格化も危険だけれど、「親近感を抱き、より身近な所に誰かを置いた時」。自己評価が歪められてしまった人は、「その心の毒で比較し傷ついてしまう」様に思うから。
自虐は「重すぎると笑えない」。「軽すぎると"じゃあそれより酷い私は何なのか"」と毒に蝕まれる人が出てくる。
だから、私は使わない。
使わないのではなく、使えないのかもしれないけれど。それは選択ではなく、選択肢が用意されていないのかもしれないけれど。
傲慢で、自分を愛し、他人を愛す私は、ダメな部分をひけらかすのが難しい。自分が傷つく事ではなく、他人を傷つける事を怖がるのは、偽善の様にも見えるけれど。とにかく私には難しい。
難しいけれど、放棄したくはない。
簡単ではないけれど、諦めたくはない。
それでも今は、「ちょうどいい答え」が見つからない。
悩みにもならない、心に横たわった小石を時々見つめて、また見ないフリをする。
この記事が自虐だと言われれば、それも一つの解釈として成り立つと思う。