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学びがゲームで、遊びが業務で 2024年3月

今の職場の残り勤務日数が10日を切った。4月から別センターで勤務する。
まだまだ異動することは嫌だけど、ちょっとずつ受け入れても来ている気がする。でも嫌だなぁ。


お世話になったことを返したいと思う。今何を返せるだろう。いや、いままでずっと返し続けてもきた。
「今日もがんばったなぁ」と、余すところなく日々を過ごしてきたということはそういうことだと思う。


今の職場が終わりに近づくにつれ、自分の日々に意味づけをしたくなった。いままでの職場もそうだったが、今回の職場も最高だ。
キャリア支援の現場にいながら大事にしてきたことは「迷い」と「遊び」だ。
迷いは大事だ。迷った方がいい。迷いが少ないやつは愚か。そう言い切ってしまってもいいと思う。もっと迷おう。迷えば迷うほど苦しくて、嫌な思いをして、逃げ出したくなって、孤立して、正解がほしくなって、誰かを探して。
そういう営みの繰り返しが人生だとも思うが、正直大変だ。ある意味2度と繰り返したくない、と思ってしまうことこそを繰り返してるようにも思う。
その営みの中で、自分の本当の思いとも出会うことができたんだと思う。迷ったから出会えたと言える。迷うことはもう2度と繰り返したくないが、出会えたこととは何度でも繰り返し出逢いたい。
迷えば迷うほど、人生は豊かになる。

春という季節は出会いと別れの季節とも言われる。出会いと別れはセット、とも言われる。
でも少なくとも僕は別れるつもりがない。別れない。いつでもつながっている。たとえ距離が離れようと、たとえ出会う頻度が変わろうと、それを別れとは思わない。また出会う機会を死ぬ物狂いでつくる。そして出逢いたい時に出会う。だから別れない。別れることはしない。僕と、僕の出逢いたい人はずっとつながっているから。



つながりをつなぎ止めるものは何か。本当に自分の人生では嫌というほど思い知らされてきたと思う。
繋がりたいから繋がれる、ということではなく友達になって?と言ったから友達でいられるわけではない。
遊べるかどうか。遊ぼうと思えるかどうか。
面白いかどうか。面白いことをしようと思えるかどうか。
また明日も遊びたいと思えるかどうか。

こういう感覚こそが、生きていく上でとても大事だと思う。つながりを続ける動機になるし、あたらしい繋がりにも通じる。これをどれくらい日常、24時間に意識的にできるか。それの尺度によって人生の幸福度が支配されているといっても過言ではない。
だから、遊びを大事にしている。

生きる理由がいる。でもそれは「生き続けるため」ではまったく足りない。
生き続けるために生きることはできない、と言ってもいい。
生きる理由は「楽しそうかどうか」だと思う。明日も楽しそうかも、と思たら明日も生きたくなる。明日も苦しいかも、と思えば今日で人生を終わらせたくなる。
楽しそうかも、と思うにはかなりハードルがある
仕事と遊びにかなり距離ができてしまった。本来は一体的な関係性だった。

もっと遊ぼう。それくらいがちょうどよい。

そんなこんな。

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