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藻塩焼き

 日曜の昼、あたしはよく知った飲み屋の前にいた。口頭で道順を説明しようにも鯉のように口をパクパク開くことしか出来ないが、自分自身は目を瞑っていても勝手に足を動かしてそこにたどり着くことが出来る。

 曇り硝子が嵌め込まれたドアを開けると微かに生臭いような甘い煙が鼻を衝く。中はバーテンも居らず、ただいつも通り最奥のボックス席に突っ伏している半裸の男だけが客として居座っていた。煙を潜りながら男の向かいに座り、既に置かれている氷入りの甘い麦茶を口にする。温い。

 「なあ、今日は何日の何時だ」

伏せたまま男が問う。本当は壊れたおしゃべり人形のような話し方で『なあああきょおおわああああああ』と、初めは何を言っているのか判らないようなものだが、今ではすんなりと漢字変換が出来てしまう。

 今日は7月6日の12時、そう答えるとテーブルに何か呪詛を吐きながら手前に置かれた麦茶のグラスを掴み、顔を上げたかと思いきや突っ伏してまた動かなくなった。荒れ野の草のような色の抜けた頭を乱暴に撫でると砂が卓上に落ちる。匂いを嗅ぎたくなったので奴の隣に座り直そう。席を確保するためにゴム人形のような腕を掴んで席の奥に押しやると、力の入らない体はごろんと座席の上に転がり、脱げかけのワイシャツが絡まっただけの浅黒い肌が露わになった。抱きしめやすいように仰向けに寝かしてやり、足を割り開いて上から覆い被さる。頭を抱き髪に鼻を埋めながら深く息を吸うと、店内に立ち込めている煙をずっと濃くしたような甘ったるさが昇ってきて喉の奥が広がる感覚がする。



 眩めきが脳に達して泣き出したいくらいの酩酊状態のまま、どれほどの時間が経ったか分からない頃、あたしの下から掠れた声がした。「最近、己れはあれが好きだなあ。咳止めのシラップが、プリンの下に入ってる茶色いのがよお、同じ味がするんだあ。ベロが痺れて何も解らなくなってきて、甘いんだあ」そうだ、知っている。あたしもそうだよ。天地が反転して浮き上がった体を優しい手が撫でる。どこもかしこも気持ち良くなって臍の奥が温かくなる。

 グラスの氷が鳴る。



 あたしは自室の6畳間の上にいた。男の姿も店の間取りも頭から掻き消えていた。どこをどう歩いたかを思い出そうとして口を開いても空気だけが吐き出されて。思考が泥のように胃液の奥に沈んで動けないので眠ることにしよう。

 閉じた瞼の裏に、生臭く甘い煙が残っていた。

今日のご飯代に充てたいと思います。