DiverDivaは「青春アミーゴ」を歌うのか?
こんにちは。かみなりひめです。
昨日、急に知り合いのオタクから
とある呟きのことを教えてもらいました。
およそ、昨晩に放映されていた
「MUSIC STATION」において、
年代ごとのドラマ主題歌ランキングが
発表されていた影響でしょう。
スタジオにKAT-TUNもいらしていたという
事情もあったのでしょうか(?)、
見事「青春アミーゴ」が1位となりました。
確かに、普通に考えれば、
DiverDivaが「青春アミーゴ」を歌うとは
あまり考えられないでしょう。
ややもすれば、一笑に付されてしまう
ような「幻覚」なのかもしれません。
しかし。
それを承知の上であっても、
私はこう思ってしまったのでした。
DiverDivaで「青春アミーゴ」?
ぴったりではないか!
1. 修二と彰。DiverDiva。
ご存知の方も多いと思いますが、
この「青春アミーゴ」は日テレ系列のドラマ
「野ブタ。をプロデュース」の主題歌です。
歌うのは、桐谷修二と草野彰のユニット
「修二と彰」となっております。
まずは、この桐谷修二と草野彰について、
そしてドラマ版「野ブタ。をプロデュース」
についても見ていくことにしましょう。
主人公・桐谷修二は、明るいキャラで
クラスの中心人物でした。
そんな修二の「親友」を自称するのが
草野彰です。会社社長の子息であるがゆえに
「自分がのめり込めることがない」と悩み、
信子のプロデュースを修二と始めます。
この修二と彰の人物像ですが、
DiverDivaの二人にもハマりそうに
見えてきませんか?
まず、宮下愛さんのプロフィールは
虹ヶ咲学園の2年生。
ノリの良い性格で面倒見がいいので友だちが多い。
見た目が派手なので勘違いされがちだが、人情にアツく、おばあちゃんっ子。好きな食べ物はぬか漬け。
とスクスタでは表示されます。
一方の朝香果林さんは、
虹ヶ咲学園の3年生。高校生離れのルックスに抜群のプロポーションを持ち、読者モデルの経験も。
大人っぽい見た目とは裏腹に意外に負けず嫌い。
これまで何かに本気になることがなかったが、気軽に始めたスクールアイドル活動にはのめりこんでいく。
となっています。
愛さんから溢れ出る明るさ、そして
周りからの人望の厚さ。
何にものめり込めることがなかった
という果林さんの過去の姿。
それぞれ、修二と彰に対応させると、
宮下 愛 ― 桐谷修二
朝香果林 ― 草野 彰
という図式になるのです。
この意味で、DiverDivaが修二と彰の曲を
歌うことに無理はなさそうな気がします。
2. 通底する「決断主義」
ここまで、修二と彰の二人の人物像が
DiverDivaの二人と重なるということを
お伝えしてきました。
とはいえ、ありとあらゆる作品を見れば、
修二と彰っぽい二人組なんて他にもいるのは
火を見るより明らかな話です。
しかし、このDiverDivaと修二と彰とを
繋げるもうひとつの糸があるのです。
この二つのユニットを生み出してくれた
・「野ブタ。をプロデュース」
・「虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会」
これらは、この「決断主義」という
考え方において共通しているのです。
そもそも、この「決断主義」という用語は
評論家の宇野常寛さんが提唱したものです。
世の中が、「正しい価値」や「生きる意味」を示してくれないのは当たり前のこと=「前提」であり、そんな「前提」にいじけて引きこもっていたら生き残れない――だから「現代の想像力」は生きていくために、まず自分で考え、行動するという態度を選択する。たとえ「間違って」「他人を傷つけても」何らかの立場を選択しなければならない――そこでは究極的には無根拠であることは織り込み済みで「あえて」特定の価値を選択する、という決断が行われているのだ。(宇野常寛『ゼロ年代の想像力』)
このような、たとえ究極的には無価値でも、
特定の価値を選択する(決断する)態度を
「決断主義」と呼んでいます。
ニジガクにおいては、1stライブのときに
その特徴が顕著に現れていました。
(アンコールに出られるのは一人だけ)
ファンたちは、それぞれが「推し」という
特定の価値の選択を迫られました。
それ以外にも、マンスリーランキングなどの
投票企画がてんこ盛りだったニジガク。
多くの場面で決断主義的な判断が不可避である
コンテンツなのです。
さて、一方「野ブタ。をプロデュース」は
どのようなところに「決断主義」の影が
見えてくるのでしょう?
先述の宇野常寛さんは、
ドラマ版「野ブタ。をプロデュース」を
日常の場としての「小さな共同体」における
キャラクターをめぐる闘争、と結論します。
ここでいう「小さな共同体」とは、
家族や学校のクラス、友人関係といった
ものを指しています。
そのうえで、「学校」という小さな共同体に
ついて、以下のように述べています。
現代における学校とは、異なるものを信じる人間たちが強制的に同じ箱に入れられる場所だ。そこで生徒たちは、教室という共同体の中の相対的な位置に応じて「キャラクター」を与えられる。物語に主役と脇役、善玉と悪玉がいるように、与えられた位置=キャラクターがそこではすべてを決定する。多くの生徒たちは、この構造を無自覚に受け止めながら、自分の身を守るための対応を取っていく(決断主義)。だがそれは実は、教室という小さな共同体の中の相対的な位置、つまり書き換え(入れ替え)可能なものである。(宇野常寛『ゼロ年代の想像力』)
教室の内でのキャラ付けは、得てして
教室の外では無意味になることがあります。
たとえば、教室では寡黙な優等生が、
趣味のことではイキイキと話したり、
クラスのヒロインともいえる存在が、
家庭ではかなり荒れていたり……なんて
ことはよくありますよね。
思えば、「野ブタ。をプロデュース」は、
転校初日からいじめに遭う信子を、
修二と彰がプロデュースしていくという
「ゲーム」を題材にしていました。
陰キャでいじめの対象となった信子を
プロデュースすることで生まれ変わらせ、
教室という「小さな共同体」における
彼女のキャラクターを書き換えることが
彼らの「ゲーム」でした。
ですが、これは本質的には
あまり価値のない話でもあります。
教室内でのキャラクターを書き換えても、
教室を出れば意をなさないからです。
つまり、本質的に無価値だと分かっていても
修二と彰は信子のキャラクターを書き換え、
プロデュースしていくのです。
これはまさに「決断主義」的な発想に
基づくものとして捉えられるのです。
このように見ていくと、
修二と彰、そしてDiverDivaはともに、
「決断主義」の発想が底流している
作品から生まれたユニットなのです。
二つを結びつけるキーワードは
「決断主義」だったのでした
3. ふたたび「青春アミーゴ」
ここまで、DiverDivaと修二と彰に、
① キャラクターの人物像
② 決断主義という発想のコンテンツ
という点に共通項を見出だしてきました。
では、そんな修二と彰の「青春アミーゴ」を
DiverDivaが歌うとすれば、その意味とは
どんなものになるでしょうか?
ここで、「野ブタ。をプロデュース」の
あらすじを再度なぞってみます。
最初こそ、信子をプロデュースすることを
「ゲーム」としていた修二と彰。
ですが、話が進むと様相が変わります。
修二は信子のプロデュースゲームに
勝利することよりも、そのゲームのなかで
培った彰や信子との人間関係の、そして
三人で過ごす時間の大切さに気付くのです。
そんな雰囲気を存分に有しているのが、
主題歌「青春アミーゴ」なのです。
「青春アミーゴ」に描かれる世界観は、
およそ以下のようになるでしょう。
地元では負けを知らなかった友人二人。
憧れていた街へと出ることを果たすが、
一人がその街で喧嘩に敗北してしまう。
「でかい夢を追いかける」という夢を
諦めかけるが、その時に手を強く握られ、
街へと旅立つ日の空を思い出した――。
ここから読み取れるのは、
共通の夢を追いかける同性二人の友情、
そして、それらが終わりを告げそうになる
ことで、二人で過ごした時間の価値を
改めて想起するということでしょう。
これはまさに、ドラマ本編で語られた
テーマに重なっていくのです。
時間は有限であるからこそ、
あえて信じた無価値なモノよりも、
その価値基準を越えたモノが大切。
決断主義へのアンチテーゼとも読める
そんなことが描かれていたのです。
これをDiverDivaが歌うとき、そこには
どのような意味が生まれるでしょう?
以前に述べた通り、DiverDivaは
「決断主義」の名の元に行われる競争で、
かなり厳しい位置となっています。
スクールアイドルチャンネルという
30名弱のスクールアイドルからひとりを
選んで推させるその機構。
(まさに↑これ↑)
メインストーリーで「裏切り者」扱いを
受けたDiverDivaは、ランキングも不調。
そんなDiverDivaが、決断主義への
アンチテーゼを歌うのです。
体制への反逆という力強さ、そして
反骨心ゆえの凛々しさが見える。
そんな「青春アミーゴ」になりそうです。
4. おわりに
ひとりのファンの呟きから端を発した
戯言をダラダラ述べてきました。
こんなことを考えたくなったのには
もちろん理由があるのです。
今日の #DD_day1 、そして
明日の #DD_day2 公演。
大銀河宇宙連邦本部とともに
パトロールするみなさん
絶対楽しみましょうね!!
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