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相反する自我とトリック――アンジュルム「ミラー・ミラー」

こんにちは。かみなりひめです。

さて、先般の記事に書きました通りですが、

ワタクシ、絶賛ハロプロ沼をもがき泳いでいます。
現在も絶賛布教をいただいている真っ最中ですが、
またしても名曲に出会ってしまいました。

アンジュルム「ミラー・ミラー」

リズムギターと電子音が心地よい
ダンサブルな楽曲だなあという
耳からの印象を絶賛打ち砕く歌詞

そんな歌詞を紐解いていきたいと思います。
曲のタイトル通りですが、キーワードはもちろん

「鏡(mirror)」

1. 鏡像は実像と似て非なるモノ

歌詞世界の主体となるのは「わたし」。
この「わたし」は相反する二面を持ち合わせる
人物として描かれています。

この世でいちばん
美しいのは?
臆病なのは?

答えは散らばったまま

アンジュルム「ミラー・ミラー」

この世でいちばん
注目されたい
放っといてほしい

心はいつでも正反対
ちょっぴりの好き
めちゃくちゃ不安
ミラー・ミラー 裏と表

アンジュルム「ミラー・ミラー」

みんなから注目されたいけど、一方では
放っておいてほしい

美しさというプラスの価値観も気になるけど、
臆病さというマイナスの方も知りたい。

注目と放置。正と負。
対立する二者を両立させようとする主体の姿が
サビの歌詞から見えてきます。

こんな「わたし」の人物像が掴めてくると、
以下の歌詞の意味あいも理解できるモノ。

すっぴんのまま勝負しなよ”
簡単に見せてあげないよ

アンジュルム「ミラー・ミラー」

ここの「すっぴん」とは、化粧の有無ではなく
飾らない自分の姿”の比喩と捉えられるでしょう。

そう考えてみると、
簡単に見せてあげないよ」というのは、単に
飾らない自己を見せることへの恐怖心でしょう。
それを強気にふるまって隠しているのです。

衆目を集めて承認されたいけれど、
自分をさらけ出せるほどの勇敢さはない。
そんなアンビバレントな「わたし」像が
浮かんできています。

この「相反する二者」を喩えるために
歌詞世界に導入されているものこそ、
」であるわけです。

唱えて独り 鏡よ鏡
マスカラ落ちてる…
ちょっぴりの好き
めちゃくちゃ不安
ミラー・ミラー ね、わかるでしょ

アンジュルム「ミラー・ミラー」

「鏡よ鏡」は言わずと知れた白雪姫
鏡に自身の不安や悩みを打ち明けるのは
よくある構図ですよね。

個人的には、「マスカラ落ちてる…」が秀逸。
ストレートに「泣いた」と言わずして、落涙を
表現している
この歌詞に震えてしまいました。

しかも、鏡を見ることではじめて泣いている自己を
認識している
書き振りなのです。天才。

さて、そんな鏡への問いかけの後、
好き」と「不安」のアンビバレントが、
続いていきます。

ここで、鏡に映る像(=鏡像)というものは、
実物と同じモノであるかののように見えますが、
それとは異なる似て非なるモノにすぎません。
実像と鏡像はあくまでも別のモノなのです。

この実像―鏡像という二項対立を「わたし」の
心内のアンビバレンスの表現として転用している
と考えられるでしょう。

まずこの点において、「鏡(mirror)」の
キーワード性が浮かんでくることになります。

2. 歌詞世界の場と連想の問題

ここまで、歌詞世界の主体たる「わたし」の
相反する心内を表現するために、鏡における
実像―鏡像の二項対立
が用いられていることを
述べてきました。

さて、もっと歌詞の基本的な設定に目を向けます。

この歌詞の世界の中で、「わたし」がいる空間
いったいどのようなものでしょうか?

まとわりつく退屈から
逃れたくてここへ来たの

アンジュルム「ミラー・ミラー」

Mirror mirror, mirror ball
Who's the loneliest on the floor?

アンジュルム「ミラー・ミラー」

ここ」にたどり着いたところから、この
ミラー・ミラー」の世界は始まります。

そして歌を聴いていく中で、「ここ
すなわちこの「floor」にはミラーボール
あることが示されていきます。

これらのことから考えると、
わたし」がいる空間はいわゆるダンスホール
ダンスフロア)になるはずです。

この場面設定には、当然のごとく意味があります

それは、”ミラー”ボールが自然にある空間を
設定することで、その”ミラー”から「」へと
連想する力を喚起するためでしょう。

こうすることで、前述した「実像―鏡像」問題へと
聞き手の意識を促していくのです。

さらに、これは邪推かもしれませんが、
ミラーボールの性質を考えてみると、
より深みが出てくるかもしれません。

ミラーボールはそれ自体が煌びやかですが、
その実は無機質な銀色の球体です。
光を乱反射するそれは一見輝かしいですが、
その本体はえてして見えにくい。

それは、この歌詞で描かれている「わたし」の
あり方に近いものがあるのではないでしょうか。

そんな「ミラーボール」を難なく登場させるために
このダンスホール(ダンスフロア)が選ばれている
と考えることができましょう。

そして、この場面設定ダンサブルな曲調
要請しているのだとすれば、この曲において
サウンド歌詞世界のご都合に求められたモノ
であるということまで言えてしまうのです。

3. 「鏡」に欠かせないラカン

さて、ここまで「鏡(mirror)」と歌詞世界との
関わり方について考えてまいりました。

■実像―鏡像の二項対立が、アンビバレントな
「わたし」の心内の比喩になっていること
■ダンスフロアを歌詞世界の場面に設定し、
「ミラーボール」を登場させることの効果

これらについて述べてきました。
が、「鏡(mirror)」といえば、こちらを
忘れてはならないでしょう。

それこそ、ジャック・ラカンが唱えた

「鏡像段階」

と呼ばれる発達段階の用語です。
やや冗長ですが、「日本大百科全書」を
引用して示します。

生後6か月から1歳半に至る発達段階のことをいう。幼児の自我は身体像を通して形成されるが、鏡像段階以前では身体像は全体として統一のとれたものでなく、ばらばらに寸断されたものであり、「寸断された身体」とよばれる。鏡像段階になると幼児は自分の姿が鏡に映っていることに特別の関心を示し欣喜雀躍するが、これは全体としてまとまりのある身体像をみいだすことができるからであり、全体としてまとまりのある自分というものを発見することができるからである。…【略】…この鏡像と根源的な同一視をする幼児にとって、自我とは他者にほかならない。鏡像段階は、こうした対人関係の基本的構造を示したものであるが、幼児の対人関係だけでなく、一般的な対人関係の構造を示すものと理解されている。

日本大百科全書「鏡像段階」の項目より

つまり、鏡に映った自分の姿を見ることで、
自身の身体のイメージを構築する
、ということ。

しかし、鏡に映った自分の姿(=鏡像)は、
あくまでも自分自身そのもの(=実像)とは
似て非なるモノなのでした。

自分自身のイメージ(=自我)というものは、
自分自身そのものではないはずの鏡像との
重ね合わせで構築されていくのです。

だからこそ、この「わたし」も、ひたすらに
鏡に尋ねていくのです。
「誰が最も公平(臆病)なの?」と。

それによって、アンビバレントな自己
認識するとともに、自我を構築していく
という営みなのだと考えられます。

この営為によって作り上げられた「わたし」は、
そのアンビバレントさをすべて受け入れて、
そんな二律背反の自分を認めてくれる他者への
呼びかけとともに歌詞世界は終わりを告げます。

Ahダンス…
全部全部 わたしだよ
Ahダンス…
ああ…誰か! 誰か見抜いて!

Mirror mirror, mirror mirror ball
Who's the fairest?
Mirror mirror, mirror mirror ball
Who's the loneliest?
Mirror mirror, mirror mirror ball
Who's the fairest?
Mirror mirror, mirror mirror ball

君が見抜いて

アンジュルム「ミラー・ミラー」

鏡像へ問いかけ、自我を確立していき、
その自我を認めてくれる「君」を呼ぶ。

ミラー・ミラー」には、そんな自我確立の
プロセス
もが織り込まれていたのでした。

4. おわりに

鏡に向かう自信なさげな少女」という
テーマは、思い返せばここにもありました。

こんなところで発想の類似を見出せるとは
セカイはやはり面白いモノです。

ということで。

布教くださっている各位!
中須かすみも何卒よろしくお願いします!ね!!

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