定義について考えるのは一旦やめておこうと思います

私は多くの人と同じように、時間の経過によって作られた「習慣的行為の集積」です。意志の力が働く気がする時もありますが、それさえも習慣的な行為の連続性が生み出したものに感じられます。

まるで、長い時間をかけて削られた天然の岩のようです。私というのは、私以外のものが通過した後にできる世界の面影なのでしょうか。

昼間にこんなことをふと思って、書残すなんて正気の沙汰ではないような気がします。

ですが、これは日記なので「今日の私はこんなことを思ったよ」と記すのはギリギリセーフな気もします。

ただ、そもそも日記というのは事実ベースで書くものです(よね?)
そう考えると私は日記を書いているつもりでありながら、日記をかけていないということになります。これは問題です。

しかし、実際には私は今こうして日記を書いているのですから、はたまた途方にくれます。これは定義の問題ということになります。

定義について考えるのは一旦やめておこうと思います。その代わりにというか、事実をいくつか述べていこうと思います。

朝起きて、1時間ほどだらだらとうだうだした後で、ゆで卵を1つ食しました。

その後に、読書を3時間ほど行い、米とひじきを喰らいました。

昼寝の後、また読書、そして腕立て伏せをして、今日記。

ただいま午後3時30分。1日は長いです。いつもこれくらいの時間に私は途方にくれてしまいす。寝るまでにどのように過ごすべきかが分からなくなります。

その不安を紛らわせるために酒を飲んだり、無駄な向上心を発揮して自分に必要のない知識を求めたりします。

今日は今のところ酒は飲んでいません。せめて夜になるまでは我慢できたらなと考えています。

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