何かを知らせるならば、同時に解釈を与えなければならない

日記のルールを決めようと思う。私の日記は日記の体をなしていない。日記の体をなしていないとうことは、そもそも私は日記を書いていないということになる。

日記とは何か。字面から素直に解釈してみれば、日を記した文書だと考えられる。つまり事実を記していかなければならない。今日何があったのか、それを私はどのように感じたのか、こうした文章の連続が求められる。

今日話さなくても良いことではなく、今日にしか語り得ないことを記さなければならないということだ。これは簡単なようで難しい。

小学生の作文のように、事実をつらつらと並べ立ればいい、というものでもないから。事実を記したならば、その事実を自分というフィルターを通してみなければいけない。そして、それを文にしなければいけない。

何かを知らせるならば、同時に解釈を与えなければならない。

日記ってこんなに難しいものでしたっけ?

こうした定義に基づくと、ここまでの文章は日記ではないのである。つまり、今日も私は日記を書けていないのである。

明日は事実と、その事実に基づく感慨・小話、もしくはあったことをストーリー仕立てになんかしてみて公表できたらいいな。

今日の日記は、またしても日記#0でありました。

サポート頂いても、あなたのことを『サポーター』とは呼びません。安心してください。あなたはあなたです。