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他人の悩みは蜜の味、それかルービックキューブ、もしくはスイカゲーム(1,560文字)
まれになんかの会話の流れで、他人のお悩み相談を聞くシチュエーションになることがある。
先日もそうで、その時は…
相手の明るい顔を見るに、どん詰まりから脱け出るような解釈を提示できたらしかった。ラッキー。
そうわたしは解釈が、ものの見方や価値観が、ときどき著しくズレている。
ズレているというか、その辺の人が「それとこれとは別」とか言って引き返す境界を「別じゃないが?」とそのまま強引に合体させるような感じがある。
いやまだ行けるでしょ何言ってんだ、と思うからだが。
逆張り・超理屈・理解不能として嫌がられることも多いが、
うまく転べば「そういうふうに考えたことはなかった」と相手の毒気を抜けるし、「柔軟なのに一貫性がある」と評価くれた人もいた。
わたしの欠点であり、コンプレックスであり、
ささやかな長所だ。
正直、人の悩みを聞くのは好きだ。
これだけ読むと、ウエッとなる人もいるだろう。
他人の悩みを面白がるのはよくないとか、承認欲求がキツいみたいなイメージで。
というか、長らく自分でもそう思っていた。
他人の不幸は蜜の味、というのは実は人類共通の心理で(興味があれば<シャーデンフロイデ>で検索しよう)、
「私はあの人よりマシ」みたいなのもきっとそうだ。
わたしにも覚えがある。
しかし覚えがあるからこそ、
よく考えるとわたしの「人の悩みが好き」はシャーデンフロイデとはなんか違う、と気がついた。
ーーー
なんだろう、この気持ちは。
承認欲求とかそういうのとはまた別の…
そうだ、
知恵の輪とかルービックキューブにハマっていた頃のあの体感と一致する。
いや喩え古すぎ?最近流行ったのって何?
スイカゲーム?
そう、スイカゲームにもすごく近い。あとは国語の読解問題で満点を取った時の、やったぜ!の感覚。
ルービックキューブは難関だ。かちゃかちゃ回し続けて、一面でも色が揃った時はすごく嬉しかったし、脳汁が出ていたと思う。
スイカゲームはフルーツが全然思い通りに転がってくれないけど、なんかのはずみでポコポコポン!とスイカになった時のカタルシスが最高だ。フルーツかわいいし。
国語のテストは…言うまでもない。
他人の相談というのは誰かが私に託してくれたパズルだ。
パズルを代わりに解いてみせれば、相手が「その発想はなかった」と驚いた顔をする…新しい道を見つけて、少し希望を取り戻して、ほっとした顔をする。
…悩まない人になるのは、実は至って簡単だ。
未来も過去も自分も他人も諦めて、真っ暗な気持ちで歩みを止めて、無敵の人として開き直るだけでいい。
でも、大抵の人は悩む。不思議なことに。
個人個人でどんなに理由やシチュエーションが違っても、そのベクトルは同じ方を向いている。
わたしが好きなのは他人の悩みそのものではなく、悩んでいる人の曇り顔の上に隠れている、
「どうしたらいいかわからないけど今のままで止まりたくない」
「自分や相手のために、もっと善い道を探したい」
という不思議で素敵な動機の方なのだ。
それが「愛」とか「調和」とか「パズルクリア」と呼ぶ状態なんだろうと、
特に根拠はないが、わたしはそう思っている。
ーーー
それは難しいものだ。
わたしがルービックの色を揃えて返却しても、いつしかひねり直してごちゃごちゃの状態に戻す人もいるだろう…
誰かが先に解いたのが気に入らないのかもしれないし、あんまり退屈だからもう一度自分で遊ぶためかもしれない。
それはそれで構わない。その道を実際に歩くかどうかはその人の自由でいい。
わたしはパズルを貸してもらえただけで満足だ。
悩むというのは、本質的に素敵なことだ。
困っているなら全然わたしが解きたいが、
自分で解きたいならそれもよい。諦めなければいつかきっと解けるだろうから。
シャーデンフロイデとも、博愛とも少し違う、
わたしが他人に抱くのはそんな感想です。
おわり。
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