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【ポスト感情論】感情の分け方アップデートについて/あと熱血語り(2,013文字)
感情とは感覚の連なりであり、物語であり、線で表すものだ、というのが、ポスト感情論の考え方だ。
人は自分の選択に自信が持てなくなった時
しばしば「道を見失う」という比喩を用いるが、
この「道」とはまさに、それなりに一貫性があるはずの「線」がぶつ切りになってしまい、自分が立ち止まらざるを得ない状況を指している。
なんか…あったよね、そういう線路パズル。なつかし。
そういうわけでポスト感情論では、
従来の「喜怒哀楽」の分類とは別に感情をベクトルで分類するのはどうでしょう。と提案したい。
具体的には、
「能動の感情」
「受動の感情」
「行き場のない感情」
ざっくりこの3つ。
急に何??と思うかもしれないけど、とりあえず聞いてくれたら嬉しい。理由はあとで説明します。
ーーー
上の3つの感情は、英単語で表すともう少し飲み込みやすいかもしれない。
フィーリング/Feeling=能動の感情
エモーション/Emotion=受動の感情
センチメンタル/Sentimental=行き場のない感情
*厳密な翻訳だと全然違ってくるんだろうけど
あくまでざっくりイメージとして大目に見てください。
フィーリングは「何かに対して働きかけようとする」
性質を持つ、能動・外向の感覚線だ。
新作映画が観たい、
あの虫の名前を知りたい、
美味しいごはんが食べたい、
ここから逃げ出してハワイ行きたい、
理不尽な上司をぶん殴りたい、など。
自分→外世界(相手、場所、未来)にベクトルが向いている想い・言葉が、フィーリング。
対してエモーションは「何かに対して抱いた感想」
という受動・条件反射の性質を持つ感覚線で、
(ラーメンを食べて)おいしかった、
(誰かと遊んで)楽しかった、
(彼女にフラれて)悲しかった、
(理不尽に怒られて)つらかった、など、
それには必ず原因がある…外世界から何かがぶつかった結果の感覚、それがエモーション。
残るセンチメンタル…具体的には切ない、やるせない、郷愁などの「行き場のない感情」。
これは他の2つとは少し違い、
内向きでも外向きでもない…わたしは勝手に「ゼロに近い感情」と呼んでいるのだけれども、
日本人はたぶん、この感情に特に敏感だ。
「侘び寂び」を愛でる文化からもそれが読み取れる。
自分から湧いてくる力、
外からぶつかってくる力、
その狭間で消滅する力。
そういう捉え方で日々自分の感情の方向を観察してみると自分がどちらへ向いているのか、それは望み通りなのか逆流しているのか、とかが何となく自覚できるので、おすすめです。
ーーー
さて、
察しのいい人は気づいただろうか。
この方法で感情を分類するといわゆる「自分の本音」というのはフィーリングに属するのだけども、
例にもあるように、人の本音は多くの場合キラキラポジティブな感情ばかりとは限らない。
というか、キラキラだけしかないのは異常だ。ドロドロでべちょべちょの感情も含まれているが、それもまた自分。
わたしは…感情を喜怒哀楽で捉えるのはもう古い、と思っている。
多くの人は「喜楽は歓迎だが哀怒には蓋をする」という子供みたいに単純な二項対立に囚われがちだが、
その対立を解消しない限り、自分らしさの半分は切り離され抑圧されたままになってしまう。
感情の捉え方をこの方法にアップデートできれば、
人の心は「ポジが善/ネガが悪」という頑固な二項対立から解放され、
「俺か/俺以外か」という個性の形態を取り戻す。
は?
いや…なぜか某ホストに収斂してしまった
なんでだ
ともかく。
善悪のジャッジメントを捨てて、どこかで裂けてしまった半身と仲直りして、自分の内に戻すこと。
自分の感情を上手に繋げて、フィーリングが示す方向へ勇気を出して進むこと(怖すぎてできないなら、それと向き合うところからだが)。
自己受容やセルフコンパッション、インナーチャイルド*などのワークは、そういう原理なのだとわたしは解釈している。
*興味があればぜひググってみてほしい。刺さる人には刺さると思うので。
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…おお、なんとか書ききった。えらい。疲れた。
ここまでしてやっと「感情論」という偏見まみれのトピックを、現代の知性レベルに揃えられたような気がする。
例えばジェンダー論で、
現代人が男女二元論を捨てもっと細やかにアイデンティティとセクシャリティを肯定しようとしているように。
異性愛も同性愛もほかのいろんな個性も“対等”であっていいのなら、わたしはそろそろ、論理と感情も“対等”へ持っていきたいと思っている。
できるはずだ…「論理的であれ/情熱的であれ」とつまらない二項対立に囚われず、だれもがそれを両立できたなら!
人はもっと知的で、混沌で、寛大で、パワフルな存在へ集団として進化できそうな、
なんか、そんな気がするのだ( I feel so. )。
…何言ってんだと思われそう。正直自分でも思っている。でもそう信じていた方が生きるのが楽しいから、まあ、わたしはそれでいいのです。
読んでくれてありがとね。
おわり。
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