月とコロッケ
松塚裕子
網戸越しに見える紫陽花が、庭にこんもりと小さな森をつくっている。白い月がぼんやりと浮かぶ空は、夕方なのに東京よりもだいぶ明るい。子どもを連れて久方ぶりに帰ってきた実家では、父が晩ごはんの支度にいそしんでいた。テレビから聞こえる子供番組の歌にまじって、台所からぱちぱちと油のはぜる音がする。誰かが料理をする音を聞くなんて、いつぶりだろう。いつもは、作って食べさせて片付けて、と嵐のような慌ただしさで過ぎていくこの時間を、ぽかんと過ごすことの不思議さを思った。
ほどなくして、食卓に黄金色をした俵型のコロッケが並んだ。衣の表面がまだふつふつとしている。冷えたビールもそこそこに、揚げたてを頬張ると、炒めたひき肉と玉ねぎと少しの練乳が隠し味の、ほんのり甘い、なつかしい家の味がした。
お腹の底からぼわっとあたたかいものが満ちてくる。自分の中にあった、冷たくて固い塊のようなものが、するりと溶けて流れてゆくような気がした。それは、毎日の生活の波の中を流されまいと夢中で泳ぐあまり、自分でも気づかぬうちに少しずつ積もっていった澱のようなものなのかもしれない。ゆっくりと噛みしめるように食べるうちに、肩の力がすうっとぬけていくのがわかった。
人が誰かを想ってつくる温度あるものに宿る、確かな力を思う。それは時に、暗さにすくんだ足元を灯す明かりになり、行く先の見えぬ心許なさを照らす光となる。わたしたちは、その火を受け取り、自らを照らし、そしてまた誰かに手渡すように生きてゆくのかもしれない。ちいさな火は、どこか遠くに探さずとも、いまここに、手を伸ばせばちゃんと触れることができるところに、きっと見つけることができるのだろう。今日の父のコロッケみたいに。
話したかったことがたくさんあったはずなのに、なんだかうまく言葉が出てこなくて、グラスに残ったビールをぐいっと飲みほした。暮れゆく空には月が細く光っていた。
松塚裕子 陶芸作家
2019年工房からの風に「風人」として、「文庫テント」を担当
https://matsunoco.wixsite.com/yukomatsuzuka
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