神様に与えられた、ひとつの出会いのお話
前回の記事はこちら洗礼を受けようと思った日のこと
人は、出会うべき時期に、出会うべき人と出会うと言われている。
そして、もちろん聖書にも、そのタイミングというのは記されている。
わたしはこの、
探すのに時があり、失うのに時がある。引き裂くのに時があり、縫い合わせるのに時がある。
という部分が好きで、最近では、よく自分に置き換えて考えるようになった。
例えば、わたしには、いま彼氏がいる。
ただ、彼にはまだ、自分がクリスチャンになるという信仰を告白していない。
彼と最初に出会った時、私はノンクリスチャンからクリスチャンになる直前で、洗礼に対しての意識はあったものの、まだその段階ではないかも…と踏み切れないでいたからだ。
単純に言えば、話す覚悟がなかったのである。
ここで信仰がない方のためにお話ししておくと、クリスチャンは必ずしも、クリスチャン同士で付き合ったり、結婚しなければならないわけではない。
けれど、例えば日曜日に礼拝に通ったり、いただきます、の前に神様にお祈りをしたり、そういった少しの違い…というのは出てくるし、その小さなズレが、いつしか大きなズレとなって自分を苦しめてしまう場合もあるだろうから、結婚するならクリスチャン同士がいい、という考えを持っているクリスチャンの人は、少なからず多いのかもしれない。
けれども、出会いというのは、神様がぴったりのタイミングで、いつも与えてくれるもの。
ということは、きっと私が彼と出会ったタイミングも、付き合っている今の状況も、それを保てていることも、すべて、神様がわたしに与えてくださったものではないかな、と思っている。
誰も知らない島で、一人ぽつんと寂しく過ごしていた私に、“そばで支えてくれる人”として、神様が出逢わせてくれた人。
何か大きな出来事はないけれど、側で寄り添ってくれるだけで、居心地の良い幸せを感じられるその人柄や、雰囲気に惹かれて、なんとなく一緒になったけれど、今はただ、その穏やかさの上に、幸福を感じられていて。
だからこそ、神様が私に与えてくれた出会いを、やっぱり大切にしたいな、と改めて思うのです。
でも、いつか必ず、わたしが彼に信仰を告白する日は来るのだと思う。
もしその時、彼がそれを受け入れてくれなかったら…
もしその時、自分の信仰を理解してもらえなかったら…
その時はきっと、聖書の教えの通り
保つのに時があり、投げ捨てるのに時がある
なのだろうな、とも思っていて。
何事にも定められた時があり、
全ての営みには時がある。
私が何より好きなのは、この聖書箇所の次のページにあるみ言葉が、“神のなさることは、全て時にかなって美しい”に続くこと。
神様は全て、知っておられる。これまでの出来事も、これから起こる出来事も、全て知った上で、私たちにそのぴったりの出会いや、タイミングを、与えてくれる。
だから、もし、自分が好きな人と一緒に信仰を持てなくても…
それでも、私は神様を選び、愛して、信じて、求めていきたいなと思う。
信仰を受ける前、恋愛ひとつにおいても、周りに求めてばかりで、なにひとつ、うまくいかなかったこと。
自分が愛しても愛しても、同じように愛してはもらえない…そのことが不満で、寂しくてたまらなくて、気付けばいつも「都合のいい女」止まりだったこと。
一向に動かなかった恋愛に、嫌気がさして、ずっとずっと、その場から動けずにいたこと。
それら全部が、信仰を持つようになって、少しずつ、けれど確実に、変わっているなぁと思えること。
自分でどんどんと肥大化させていた不安や不満から抜け出して、“信頼”という言葉の上に、相手を信じられたり、ただその人を想うだけで、愛おしい、と自分の気持ちを自分でいっばい満たされる感覚を覚えれていること。
平安の中で、今の自分にとって大切な人の存在を、本当に心から、大切に思い、感謝できる「今」が、私は何よりも“幸せだなぁ”と思えるのです。
こんな素敵な出会いが、私の人生に降り注いでくれていること、ひとりじゃない安心を、与えられていることに感謝して。
愛してもいい、といえる絶対的な存在が私の上にあるからこそ、私は今、安心して、誰かをこんな風に愛せるということ、その歓びをかみしめて生きたいと思う。
そして、それは、このことは、決して自分の力なんかではなくて、神様に出会って、神様を知って、深く深く信仰した先にある「幸福」のひとつではないかな、と今はただ、そう感じるのです。
*あとがき*
恋愛観における宗教のタブーについて
ノンクリスチャン時代から、たとえば、教会内での男女関係であったり、クリスチャンの恋愛観や女性観…というものの参考文献が少ないことから、きっとこの“クリスチャンの恋愛観”というものに対して、まだまだ不明確な部分は、たくさんあるのだろうな…と感じていました。
クリスチャンになると決めた以上、発信には常に責任が伴われます。今までは、まぁノンクリスチャンだから〜と許されていたことが、許されなくなったり、私がこれまでしてきたことで、罪になることもたくさんあるだろうし、発言ひとつに置いても、いろんな考えがある中で、反対意見や疑問視する声にも、きっとぶち当たると思っています。
けれど、私は、私なりの方法で、いろんな考えや、その時々に感じる気持ちを、こうやって、発信していきたいなと思っています。
それは、恋愛観ひとつでも、同じこと。
なぜなら、クリスチャンの幸せってなんですか?と問われた時、「私自身がとても幸福に過ごせていること」だと、胸を張って答えられるためだと思っています。
クリスチャンが生きていく上で大切なことは、そういう間違いなくシンプルで、単純で、そして、確かなことだと思うから。
だから、同じクリスチャンの方々には、胸を張って幸せでいてほしいと思っています。今の辛いことや苦しいことに、どうか負けないで、神様を愛せること、知れた事、全てに感謝しながら、私は幸せですよって、にこやかに、微笑んでいてほしいなぁ、と。
それが、ノンクリスチャンだった私が、クリスチャンの人たちを見て、ずっとずっと“素敵だな”と感じていた部分でもあるのだから。
洗礼を受ける!と決めてから、私は沢山の人に祝福してもらって、愛を与えてもらって、本当に、十分過ぎるくらいに幸せで満ち溢れています。本当に、おめでとう!ハレルヤ!と言ってくださる皆さん、サポートとしてnoteからの資金援助をしてくださったみなさん、ありがとうございます。
このマガジンは、どこかに掲載したり、利益を得るためのものではないけれど、確実にノンクリスチャンの女の子1人が、洗礼によって歩む人生の教科書にはなると思っています。
だから、どうか、いろんなご意見はあるものの、温かい気持ちで読んでいただけると嬉しいなと思います。
今後とも、引き続きよろしくお願いします。
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あなたがくれたこのサポートで、今日もわたしはこのなんの意味もないかもしれないような文章を、のんびり、きままに書けるのだと思います。ありがとう。