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第29回朝日杯3歳S(1977年) [競馬ヒストリー研究(24)]

2017年にホープフルSがGIに昇格し、クラシックに直結するレースとなりつつあるものの、2歳GIと言えばやはり朝日杯フューチュリティSという感覚は未だ残っている方も多いことであろう。

その朝日杯を制した未完の大器と言えば真っ先にその名が浮かぶのは1976年のマルゼンスキー。だが、同馬に負けず劣らずの大器であり、”謎の天才”とも言うべき存在が同じ時代にもう1頭いたことはご存知だろうか。今回は1977年の朝日杯3歳Sを優勝したギャラントダンサーという馬をご紹介したい。

 

1970年代、英国と米国で共にリーディングサイアーに輝き、世界を席巻しようとしていた種牡馬Northern Dancer。その産駒であるノーザンテーストを輸入し、世界的大種牡馬の血をいち早く日本へ持ち込もうとしていた社台ファーム。

そのNorthern Dancerと並行して導入を試みていたのが、Gallant Manの血であった。

同馬は米国の1957年クラシック世代でBold RulerやRound Tableと三強を形成し、ベルモントS、トラヴァーズS等を勝利。「Flying Filly」と呼ばれた快速牝馬Mumtaz Mahalの血を強調するMah Iran≒Mahmoudの3/4同血クロスを持つことなどから種牡馬としても期待されていた。

 

当時の社台グループは、米国に生産拠点であるフォンテンブローFという牧場を所有していた。これは総帥吉田善哉がせりに参加するために渡米した際突如購入したものであり、長男でノーザンテーストを1歳時にサラトガのセールで落札した吉田照哉が「お前に経営を任す」という言葉とともに場長に据えられていた。

そのフォンテンブローF で1975年、期待通りGallant ManとNorthern Dancerを父に持つ牝馬Odorikoとの間に1頭の牡馬が誕生した。それが今回の主役となるギャラントダンサーである。

 

日本へ輸入され、競走年齢となったギャラントダンサー。黄・黒縦縞・袖赤一本輪という、現在とは服色が異なる吉田照哉の名義で登録された同馬は3歳の10月に中山の芝1200m戦でデビュー勝ちを果たす。

2着馬に付けた着差は1秒7の大差で、勝ち時計は翌日(馬場は稍重に悪化)の古馬重賞スプリンターズSに0秒4迫る好時計であった。

続く300万下のいちょう特別も圧勝し、その強さを前に3戦目に選んだ府中3歳Sでは他馬が相次いで回避し競走不成立となってしまう。

そして関東の3歳(現:2歳)王者決定戦である朝日杯3歳Sに出走。ここでは前2戦のような大逃げにはならなかったものの、4戦4勝のタケデンに1馬身半差を付けて押し切り優勝。3,4着は翌年日本ダービーと皐月賞をそれぞれ優勝するサクラショウリとファンタストであった。

なお、この年の優駿賞最優秀3歳牡馬は阪神3歳Sを制した関西馬バンブトンコートが受賞し、同馬は次点に終わっている。

 

外国産馬であるため当時は中央競馬のクラシック競走に出走できなかった同馬。そのため仏国へ遠征して現地のクラシック競走へ出走するべく、朝日杯の直後に渡仏したものの、現地で体調を崩し1年以上の長期休養を余儀なくされる。

5歳春に復帰し、2戦目のオープン特別で7馬身差を付けて圧勝。更なるビッグタイトル求めて宝塚記念に臨むも、直前の水曜追いで左第1指骨複骨折を発症。重症であったが、何とか種牡馬にすべく懸命の治療を行うも、3か月後に力尽きた。

 

冒頭でもその名を上げた1歳上の同レース勝ち馬マルゼンスキーとは、公式フリーハンデを発表していた「優駿」誌上のハンデキャッパーによる討議でも否が応に比較対象となっていたが、まさに同馬とは光と影のようなコントラストを感じさせるギャラントダンサーの生涯。

社台Fがその後導入したノーザンテーストやトニービン、そしてサンデーサイレンスの成功によって血統レベルが格段に向上し、今日の繁栄を迎えた日本競馬。彼が無事に種牡馬となっていたらその歴史はどのように変わっていたのか。そんな思いを巡らせるのもまた競馬ロマンの一つであろう。

ホープフルSがGIに昇格してクラシックに繋がるようになったこともあり、よりマイル色が強くなった朝日杯FS。

若駒戦に定評がある中内田厩舎でデビュー3連勝のセリフォスは今後へ向けても楽しみにしていますが、伏兵を探すなら昨年のグレナディアガーズに代表されるようなスピードタイプの馬。

芝1400m以下で実績のあるドーブネ、カジュフェイス、ヴィアドロローサやスピードに勝ったイスラボニータの産駒プルパレイあたりを相手に狙ってみたいです。


それではー

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