東征も大戦争もなかった?

神武東征、そして近畿征圧戦争、ヤマトタケルの東国征伐など古代日本では、人々や文化は西から東に動き、かつ陰険で血腥い戦争があったというのが、過去常識だが、これもどうか?、というのが、最近の考古学らしい。「ここが変わる!日本の考古学」(前掲歴博編著、吉川弘文館、2019年)や「東アジアと倭の眼で見た古墳時代」(歴博研究叢書7、朝倉書店、2020年3月より、要約文責rac

戦う弥生人のイメージ

静岡県登呂遺跡は弥生後期から古墳前期まで約300年続いた穏やかな農村のイメージだが、佐賀県吉野ケ里遺跡は、その巨大な環濠と甕棺の首なし人骨のイメージだ。昭和戦後世代は前者、最近は後者の戦争が弥生のイメージだ。吉野ヶ里では2000基の甕棺墓が発掘されたが、首なし遺体のほか多数の殺傷人骨、逆茂木や杭列など見つかったし、福岡県糸島市新町遺跡からは、左大腿骨に16㎝の朝鮮系磨製石鏃が突き刺さったまま死んだ40歳代の男の死体が朝鮮起源の支石墓内に見つかっている。縄文人は武器を持たない、棍棒などの道具はあるが、人を殺傷する目的に作られた武器類は、朝鮮半島から水田耕作とともに持ち込まれた。(「ここが変わる!」藤尾慎一郎論文)

高地性集落には大規模戦争の証拠はない

高地性集落は、紀元前1世紀から後2世紀に中部瀬戸内と大阪湾周辺、3世紀以降近畿とその周辺、3,4世紀に広島・鳥取、そして北陸・越後に広がり,のろしや石鏃が出て軍事目的とみられるが、大規模な戦災の様子はみられない、というのが今日のほぼ定説

(北九州を除き、2世紀卑弥呼時代前後の)倭国大乱の証拠があるか、といえば見つかっていないのが実態だ。そもそも戦場と思しき遺跡が見つかっているのは17世紀島原の乱で落城した原城や19世紀西南の役での田原坂の戦いなど(日本では)極くわずかだ。おそらく死亡者は放置されることなく人々によって手厚く葬られ武器武具馬具の類も回収され修復再利用されることがほとんだだからだ。(同上藤尾論文)

卑弥呼時代から古墳時代、人々は東から西へ移動した?

紀元前1世紀後半、中国鏡が北九州に登場、以後鏡の流入は継続する。中国鏡の登場で、広型銅矛生産を集約化するなど九州北部の社会統合を刺激、鏡片や加工した中国鏡、模倣した国産鏡、なども多量に流通、瀬戸内・山陰から近畿にも広がった。鉄製刀剣も同じころ北部九州に流入、しかし鏡に比べその伝播は抑制的で、近畿には3世紀になっても鉄製刀剣の流入はない。楽浪土器(長崎県原の辻遺跡、福岡県三雲遺跡)、硯(三雲遺跡、島根県田和山遺跡)、漢の貨幣(五銖銭や貸泉、博多西新町遺跡、長崎県シゲノダン遺跡、山口県沖の山、岡山県高塚遺跡など)も発掘されており、漢人や半島人との交流の濃密さがうかがわれる。(上野祥史論文)

ところが倭国内、とりわけ卑弥呼や纏向の時代(後200~300年)、ひとびとと生活土器の移動に限ってみると、東国から近畿、近畿から九州への流入が著しい。とりわけ倭国各地域が連携して作り上げた政治都市纏向は、東海伊勢・山陰北陸・河内・吉備の土器はでるが北九州の土器は出ないとされる。

また北九州でも東からの入り口、宗像や宇佐京都(みやこ)、さらに沖ノ島(近畿から半島への直接ルート上)や大隅半島では、卑弥呼のすぐあととみられる時代に、近畿・瀬戸内から東日本系の土器が多く出る遺跡や早い時期の前方後円墳が見つかっている。さらに少し後、大宰府に先立つ近畿の九州支配の町とみられる日田小迫辻原遺跡(おざこつじばる)も発掘されいる。

前方後円墳こそ近畿秩序の全国展開の象徴

箸墓が卑弥呼の墓かどうかはともかく、西暦250年頃にはできていたというのが最近の古墳学者の総意、らしい。そうなると銅鐸工房と多重環濠で有名な唐古鍵(42万平米、全国規模の弥生市場)はまだ北西6㎞のところに残り政治都市纏向(300万平米、後180-350年)はほぼピークを迎える中で、纏向のすぐ南に前方後円墳は作られ始めたことになる。箸墓の完成度の高さは抜群で、前箸墓ともいうべき古墳が近くにいくつかあるというのだから、纏向に集まった各地の代表者たちが見守る中で練られ工事されその完成度を一挙に高めた、とみていい。そしてほとんど同時に各地方でも競うように前方後円墳群が造られはじめ、やがて近畿中央では(箸墓も含めて)オオヤマト古墳群、佐紀古墳群、馬見古墳群、古市古墳群、百舌鳥古墳群、の大和川側流域5大古墳群が造成。中核は移動していくものの5大古墳群いずれも数代にわたり大王や大首長たちが前方後円墳と周辺古墳群を造り続ける。朝鮮で活躍した応神朝大王墓も古市百舌鳥にあるというから、箸墓から数えて広開土王まで約150年、朝鮮で戦争をしながら国内では中央でも地方でも前方後円墳古墳群を全国規模で作り続けたことになる。

社会の進歩を戦争に求めない20世紀末の歴史学

何でも戦争こそが社会の進歩の原因との歴史認識はもう見直されるべきだ、そうだ。イギリスでは鉄器時代の社会変化を「ケルト」など外来集団の侵略に求めない考え方が一般的になっている。侵略や制服による国家形成論はかわり、集団の主体性や内的発展を重んじ、暴力や支配を前面に出した歴史の説明を避けるようになっているのが、20世紀末歴史学の流れだ。同様に何でも民族の違いや人種のせいにするのではなく、文化的特徴によって区別される共同体、あるいは帰属意識を共有する集団、「血」よりも「知」の共有をその本質とみる考え方が20世紀末以降主流となっている。(「ここが変わる!」松木武彦論文)

「騎馬民族説」が取りざたされた応神朝の前と後では、日本列島に居住した集団の知の内容が大きく変化したのは事実だ。馬関連のみならず、かまどや須恵器を用いる生活様式、色彩の好み、横穴系の墓制、男系親族(田中1995)など大陸に起源する新しい「知」を共有する集団が形成され、それが以降の国家形成の主体になったという新しいシナリオも可能だ。(同上松木論文)

神武東征や大戦争は本当にあったのか?

以上、これに関連する話題をバラバラメモって見た。

思うに、漢帝国消滅(紀元後220年)と半島の政治的軍事的流動化がきっかけ。卑弥呼は応援を求めて中国魏に使いを送り(念のためracは卑弥呼は北九州と今でも思っている)、そして北九州以外の日本の首長(地方王、ドン)たちが纏向に糾合し、明治維新の日本にもにて100年~150年で一挙に富国強兵し朝鮮にまで派兵した。それは優れて対外危機感と防衛目的。やがて軍人雄略による軍事独裁腰砕けで見事に自滅した歴史、とみる。まさに明治維新以降100年の日本にそっくりだ。ただ誇って?いいのは、明治以降もそして当時の前方後円墳時代も、国内的には、王家も首長たちも顔ぶれは変わっても、きわめて日本的な?ボス支配ボス談合の連続であって、大規模な神武東征も国内大戦争も結局はなかった、らしいこと。もしわずか150年の間に、大内戦をやったなら、国内一本化など難しく朝鮮での戦争も勝てず国内巨大古墳(これも明治から戦後の巨大インフラに似ている)もあんなには作れなかったはず、と今は感じている。


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