歌というより人に注目

2445C.百人一首のヘタ歌ウソ歌人問題、改稿

定家百人一首にはどうしてウソ歌人やヘタ歌が多いのか?もう、答えは簡単。ここまで見てきた通り、

百人一首は、バラバラの百人の秀歌集などでなく、番いやグルーピングを活用し全体として主張・流れがある定家独自の作品。時代順かと思われる今の百人一首リストでみるとわけが分からないウソ歌人やヘタ歌が気になるが、本来の百人一首(3種の百人一首物語、前記事3本)に戻してみると明らかな通り、その場所にその歌人のその歌が必要だったから、ウソ歌人やヘタ歌も平気で採用した


ということです。前記事からつづく。追加的に気になること中心に書いておきます。

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伊勢には定家独特の思い入れがあるように感じます。


伊勢 (874-938頃)「#19 難波潟短き芦のふしの間も 逢はでこの世を過ぐしてよとや(新古今1049)」はちとヘンな歌ですが、「短き芦の節の間」は家隆雅経定家為家らお気に入りだったよう各自歌に歌い込んでいます。伊勢は古今集23首、後撰集72首、拾遺集25首入集でいずれも女性歌人として最多、平安初期代表女流歌人で、もっといい歌はいっぱいあるのに、定家は#19をとった、なぜか。

伊勢は宇多天皇の妃温子に仕え、自身も宇多天皇ほか高官たちと交流があった。長歌もいいのがあり、長年仕えた皇后温子が亡くなった907年の哀傷歌:

《沖つ浪 荒れのみまさる 宮の内は 年へて住みし 伊勢のあまも 舟流したる 心地して 寄らむかたなく かなしきに 涙の色の 紅は 我らがなかの 時雨にて 秋のもみぢと 人々は おのが散り散り 別れなば たのむかげなく なりはてて とまるものとは 花すすき 君なき庭に むれたちて 空をまねかば 初雁の 鳴き渡りつつ よそにこそ見め(古今1006)》
(沖の海は荒れるばかり、宮殿に何年も住み暮らした伊勢の海女の自分も舟を流してしまった心地。寄り頼りにする方もなく、悲しいばかり、涙はくれないの色となり、自分たちの気持ちは、時雨で秋の真っ赤な紅葉、お世話になった人々は散り散りとなり、別れていくが当てにできる人ももうなく、止まるものもすすきの花のようなもの、君なき庭に群れて立ってそらをみれば、初雁が鳴き渡っていくのが、よそ目に見える。)

は人麻呂家持の弔歌の伝統を引き古今集的洗練を加え、美しく悲しみにたえない。この長歌の、沖の浪や血の涙紅葉という趣向はそのまま定家百人一首の趣向に通じる。定家は他人の歌百首を使ってこの世界を再現したとも見える。また古今集後撰では伊勢は大人しめの恋が多いが、後鳥羽定家ら新古今歌壇では伊勢を激しい恋の女性、恋多き女流の第一号として伊勢を起用した。定家は夭折の美男義孝#50君がため惜しからざりし命さへ長くもがなと思ひけるかな」と番って伊勢を(義孝をも)敬慕追悼した、と読む。

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以下の右近、定子、道隆らは、歌人というより、愛の名手、悲劇の主人公、です。

右近(930-960年代に活躍)の「#38 忘らるる身をば思はずちかひてし人の命の惜しくもあるかな(拾遺870)」(どうせ忘れられてしまう我が身はどうなっても構わない、しかし思はず(心にもないのに私に)愛を神かけて誓ったあの人に神罰が下って死んでしまうのではないか、惜しいことだと思う。)は、かなり空恐ろしい歌、振られた女の怨念を感じます。歌物語「大和物語」では、敦忠との恋に関わる歌と伝えます。敦忠(906-943)は道真の政敵で勝利し権力を得た時平の三男坊御曹司で、歌も琵琶もよくする風流人、美男でモテモテだったとか。右近の年齢からして右近には初恋の人だったのかも知れません。この右近の歌に対して、返しは聞かず、と言いますから、敦忠はきっとゾッとしたのでしょう、返歌はしなかったのだ、と伝えます。この歌の力もあったのでしょう(通常は道真の怨念が時平の息子達にまで及んだことになっている)、敦忠は37歳の若さで死んでしまいます。新古今後鳥羽歌壇お気に入りの激しい恋女であり、定家も右近敦忠の伝承を知っており、(百人一首の順では少し離れていますが、番い重視のバージョンでは右近敦忠は並んでいたと考えます。百人一首の敦忠#43逢ひ見てののちの心にくらぶれば昔は物も思はざりけり(拾遺710)」は、思い募る歌(拾遺集)、後朝の歌(公任の解釈)、そして密かに関係を持ったものの親に叱られての歌(敦忠集)などありますが、定家としては、#38の右近の恨みがましい歌に返事もなかったのは、敦忠が親に叱られたから返事しなかっただけで(これも情けないヘナ男さんですが)、実は敦忠は#43通り悶々としていたことにして番わせた、と読みました。

激しい恋の部分、余り歌の多くない「儀同三司母(高階貴子)」や「道雅」を加えたのも、 振幅の激しい悲劇性ドラマ性の中に真実の歌を追う、定家の性向を見ます。「道雅」は貴子の孫、百人一首では消えてしまうが百人秀歌の「一条院皇后宮(定子皇后)」は貴子の子、です。ここは歌物語でなく現実の悲劇です。百人一首ではこの悲劇から3首とるほど関心を示しています。以下長くなりますが、メモります。

儀同三司母(950頃-996、高階貴子)「#54 忘れじの行く末まではかたければ 今日を限りの命ともがな」(新古今1149)」(忘れない、とのお言葉は永遠に続くものではない、幸せな今日を限りの命であって欲しい。)儀同三司母は、関白道隆(953-995)の妻、伊周(これちか)・隆家・定子らの母。伊周唐風官位「儀同三司」から儀同三司母(ぎどうさんしのはは)と新古今集で呼び百人一首もこの呼称を踏襲。この歌は道隆十代後半で父兼家にまだ勢力なく順風満帆ではない時らしい。その後一条天皇即位と共に兼家が摂政となり、以降道隆も伊周も官位を進め摂政関白(儀同三司)を襲い、定子も道長女彰子と共に2皇后の一人となる。しかし道隆病没(995年)直ぐに道長との政争に破れ、伊周隆家は花山院に射懸けた罪で配流となり一挙に勢力を失う。この事件で定子皇后も落飾し連座しますが一条天皇の愛は変わることなく皇女を生むも産褥で間もなく亡くなります。その際の歌が百人秀歌にあって百人一首にない4つの歌の一つ:定子皇后(976-1000年) 、関白道隆と貴子の娘)《百人秀歌53番 一条院皇后定子 「夜もすがら契りしことを忘れずは 恋ひむ涙の色ぞゆかしき」(後拾遺536)》(終夜愛し合ったことを(一条天皇も)決しておわすれではないでしょうから、私の死後も、私のことを恋しいといって涙を流されることでしょう、そんなゆかしいご様子をみたいと思いますが死ぬ私にはかなわぬことです。):定子は一条の愛を全く疑っていない、完璧な愛の歌ゆえに、定家は悲劇性の強い百人一首からは外し、弟子への遺言である百人秀歌には採用した。次に百人一首が取り上げるのが道隆の孫で伊周の子の道雅です。#63 道雅今はただ思ひ絶えなむとばかりを 人づてならで言ふよしもがな」(後拾遺750)(今はもうただ思い諦めようと思う、そのことを使い番(メッセンジャー)経由でなく直接あなたに伝えたい、その方法はないものでしょうか。)どうにも名門三代目さん困ったもので、伊勢斎宮を退下帰京した当子内親王と密通し、これを知った三条院の怒りに触れて1017年勅勘を被り、その後も「悪三位」と言われるほど行いは良くなく完全に干される格好で1045年左京大夫、閑居して1054年没。#63の歌も、当子前斎宮との恋愛密通の際の歌と詞書伝承は伝えます。

以上、当時名前を出せばだれでも知っているこの悲劇を百人一首は3首の歌で思い出させている。定家ら(道長5代の孫)にとっては少し遠い傍系先祖の話。この一門のゴッドマザーというべき「貴子」はその初めからその没落を予知し怖れているし、「道雅」の歌は永遠の愛というよりなお未練たらしい三代目ドンファンとも読める、そういう中にあっても迷わず愛を信じて死んで行った「定子」を、定家はこよなく愛してるようにも見えます。劇中劇として後鳥羽を偲ぶ百人一首に、没落の話を織り込んだ。歌人としては名もない3人を加えた理由でしょう。 これまた百人一首の一つの醍醐味です。

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俊成や西行など定家にとって最も大事な師匠格の歌がいかにも代表作ではない、また別当などという著名でもない歌人を同時代人から採用したのか。一門への遺言という関連で、身の回りの知人や恩人として、


雅経家隆は新古今編纂字の同僚でもあるし定家もそこそこ評価する時代を代表する歌人。

良経実朝は定家の弟子筋で京と鎌倉を代表する政治家になるはずだったのに若くして死んだ、定家にも惜しい若者たち。

俊成は実の親、式子と西行は若き定家を守り立ててくれた大恩人、清輔は御子左家俊成と相並んだ六条歌家の大先輩、

公経は定家熟晩年の大スポンサー、慈円は主筋スポンサーの九条家の要人で天台止観も勉強した定家には精神面の大先輩でもあったでしょう。

その先も実定・忠通・基俊・崇徳院など直接どこまで知っていたかはともかく、俊成経由で聞きもし、当時の大政治家大歌人を並べています。

女流については、式子内親王と定家の関係が言われる程度でよくわかりませんが、周防内侍はだいぶ前の世代のようですがこの辺に定家があげる讃岐(1141頃-1217頃)殷富門院大輔((1130頃-1200頃)は定家の同時代であり定家ともさまざまの行き来があった、かなり特別の人と見ていいのではないでしょうか。その後歌人としては忘れ去られていくらしい、皇嘉門院別当(1170,80代に活躍)も同様で逆に定家には特別の存在感があった女流なのだろう、と想像します。
このほか、兄ともいうべき寂連が抜けているなあと思っていたのですが、rac仮説では、式子と入れ替わる形で百人秀歌では大事なところで番わされており、定家は、百人一首にせよ百人秀歌にせよ、その冒頭とその番いについては、相当力を入れている印象を持ちます。


ヘタ歌ウソ歌人、歌より人、が目立つということは、逆に言うと、百人一首は3種で、後鳥羽還御(オクラ)、一門へ遺言(サガセンゾー)、武士へ教養書、とのrac仮説はあたらずとも遠からずと自信を強め、その後厄介な(本来想定の姿)表裏番歌合せ推定を続けてこれた動機にもなりました。

加えて歌の名手と言われる人々の採用歌も名歌と言えないものが多いという事実こそ、百人一首とはバラバラの秀歌集などではない、定家が意図をもって慎重に織り込んだ百人一首で3回おいしい物語、と証明しているのです。

(百人一首シリーズ、了)


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