蓮生宛百首(天智と雅経、持統と家隆)

2410.蓮生宛百首(天智と雅経、持統と家隆)
宇都宮頼綱「蓮生」の「嵯峨中院」障子色紙形で「天智天皇より以来家隆雅経に及ぶ」と定家自身が明記している版を以下では「蓮生宛百首」と仮称します。いわゆる小倉「百人一首」(オクラ入り)とも嵯峨山荘「百人秀歌」(サガセンゾー)とも区別するためです。誰もしていない
「蓮生宛百首」を復原する
に当たって各資料もう一度見ましたが、諸先輩の皆さん、配列に関して、連番横並び2首ずつのペアリング(歌合、番い)はありうると意識されているが、rac指摘したように、(1)天智と(100)雅経、(2)持統と(99)家隆のように、頭と末尾をペアリングとし4首塊として読まれていない。(誰でも気付きそうなことだからracの見落しかもしれません、だとしたら失礼!)


このことが、推論の大事な出発点であると共に、ある意味では重要な結論・主張の一つでもありますので、わずか4つほど前の記事ですが、ダブりを恐れず先ず再掲確認して置きます。

(1)天智天皇「秋の田の刈穂の庵の苫を荒み我が衣手は露に濡れつつ」
(秋の稔りの田、刈穂で作った小屋は隙間だらけなので、私の衣の袖は露(恩寵の象徴)で濡れる)
(2)持統天皇「春過ぎて夏来にけらし白妙の衣干すてふ天の香久山」
(春は過ぎて夏が来たらしい、真っ白な衣が干されるのだと聞いているから、天の香久山に)
(99)藤原家隆「風そよぐ楢の小川の夕暮は 御禊(みそぎ)ぞ夏の徴(しるし)なりける 」
(楢(奈良)の小川には風がそよぎ夕暮れも秋らしくなり秋と感じていたが、小川では禊ぎの水浴びをしている、6月晦日でまだ夏だという徴だなあ)
(100)藤原雅経「御吉野の山の秋風小夜更けて 古里寒く衣打つなり 」
(天智持統の聖都、吉野の山の夜はもう更けて、衣を打つ砧の音だけが寒く響く)

なお、(数字)は蓮生版百首での順番です。

さて、
通説的には、(1)天智(2)持統、そして(99)家隆(100)雅経、のそれぞれのペアリングを指摘します。
つまり
天智と持統は、天皇同士で親子、平和で豊かな人々の暮らしを伺わせる。蘇我や天武系を排除してそれぞれ藤原の鎌足不比等を起用しその後の万世不朽の天皇藤原体制を確立した父娘です。

また、家隆と雅経は定家と共に新古今集選者の仲間、後鳥羽院にも近い、また、奈良吉野の古都を引き民の姿を彷彿させる。

だから、天智持統、家隆雅経、をそれぞれ番い(合せ、ペアリング)というのが、通常の説です。
それはその通りですが、
職人定家は、天智雅経、持統家隆、のペアリングも提供しています。
つまり、繰り返しますが、


天智雅経ペアでは、

同じ秋ですが、天智は豊穣の田、雅経は廃れた旧都(天智が造作し持統は頻繁に御幸します)、そして同じく人々の姿が想像されています、つまり天智は農民を、雅経は砧うつ人々、です。さらに、衣が共通し、恩寵(露)を垂れる衣と人々に打たれる衣、です。意図は明白でしょう。衣は天皇藤原貴族の象徴で、恩寵を垂れていたものが今や人々民(武家)に打たれているのです。

そして雅経が一番最後(100)ということは、奈良以前の天皇藤原体制の聖都吉野は、すたれ寒々としている。冒頭天智(1)の歌と引き合って、天皇藤原体制の終焉、武家には負けました、と示唆している。ここでは雅経が最後でなければならない必然性が明瞭でしょう。・・藤原たる当事者の定家自身がはっきり示唆しているこういう単純な事実に、我が歴代の国学系和歌学者たちは気づかないあるいは読み込まないあるいは言わない。


持統家隆ペアでは、

季節感が違っていたという歌の着想の面白さに共通がある。持統は春だと思っていたのに夏だった、家隆は秋を感じていたがまだ夏なんだなあ。そして見遣る先には人々の姿、があります。持統は洗濯物が山になびいているのをみて、家隆は禊ぎする人々を川に見ています。持統の歌の衣は乾いてなびいていますが家隆の禊は衣をはだけていて濡れています。
歌の風情、そして歴史認識の率直さ鋭さ、その対照という点では、(1)(2)と(99)(100)の連番のペアリングより、冒頭末尾の(1)(100)と(2)(99)のペアリングがはるかに優れています。これが定家が見せたかった「百人一首」「百人秀歌」にはない「蓮生版百首」の編集配列の妙、だったでしょう。

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以下は書くことをやや躊躇するのですが、定家の上記編集に気付いた時、同時に正直、定家という人の、粘着質の底意地の悪さと悪運の強さ、を感じました。

百首の最後に同輩歌人たる家隆や雅経を据えるということは、その歌人としての力量を認めたということでしょう。事実1235年春完成の定家単独撰「新勅撰集」では、家隆43首と最大数を配し雅経20首と、定家自身15首(礼法上の謙譲もある)を越えて配しています。また承久の乱からすでに十五年、後鳥羽の還御もありそうもないと鎌倉の意向が伝わった(これも1235年の春)後ですから、天皇藤原の政治覇権の時代は終わった、むしろ和歌など文化面で貴族は生き延びるしかない時代に入った、その象徴として歌人家隆雅経を天智持統に対峙して置いた、とも言えましょう。

しかし同時に、承久の乱後も家隆は後鳥羽との交流を欠かしませんし、雅経は歌のみならず飛鳥井家の蹴鞠でも後鳥羽らと親かった、方や定家は院勘を蒙ったまま後鳥羽とは疎遠、直前なった新勅撰集では選者でありながら最後に後鳥羽ら承久の乱関係者を本意ではなかったにせよ(明月記には何度もそう書き残している)排除していますし、嫡子為家が若い頃蹴鞠に懸命で歌の勉強が疎かになるなど教育パパぶりをも書き残しています。そんな経緯のある家隆と雅経に丁度天智と持統の歌に見合う歌を発見ししかも公表前提の「蓮生宛百首」の掉尾に配した。これは評価や好意ばかりとは言えない、と思うのです。

旧年の鬱積や嫉妬を決して忘れず、後鳥羽の敗戦で決定的となった天皇藤原体制の崩壊を歌った歌と二人の歌を読み替えそう配した。ライバル家隆雅経にそういう歌を発見しそう配し得たのは定家の悪運の強さであり底意地の悪さであり、恐らくはそういう使われ方をした家隆は(まだ生きていてこの2年後に死ぬ)自分の他愛のない季節歌がそうまで曲げられて使われたことに驚愕さえしたでしょう。(もっと深刻な雅経の方は幸い大分前に死んでいる)。定家はこんなことを口にもせず勿論明月記にも一切書いていないけど、歌人歌壇は同じ文化圏ターミノロジーですからすぐにこの辺は分かったでしょう、後鳥羽の耳にもやがて達したことは間違いない。定家については、若い時からその能力を買い老年になって大分丸くなったなあ、とは、家隆も後鳥羽も感じていたでしょうに、相変わらず食えないやつ嫌なやつ、とも改めて思ったのではないでしょうか(笑)。

ついでに書いて置きますが、現伝明月記は、この年の12月で終わっています、この1235年の5月の記事に、「家隆雅経に及ぶ蓮生版」を蓮生にイヤイヤ渡した、と定家は書いています。そして暮れの最後の記述は、世の中騒然として魔界の如きだが、自分たち一門は不思議と奇な良いことが続く、との趣旨を長々書き突然に終わっています。これ以降も死ぬ直前まで明月記は書かれたようですが、(通常の説は散逸したといい現に逸文があるようだが、どうでしょう)死に際に、定家は改めて上記一連を思い出し自分の人生はこの年で終わっている、とでも思って、為家ら相続者には以後の記録は抹消するよう厳に遺言した、と感じます。

(つづく)

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