古墳の進化?論

古墳の歴史観発達観も随分すっきりした、印象だ。「考古学から学ぶ古墳入門」(歴博、松木武彦編著、講談社、2019年6月)より。要約文責rac

弥生時代の墳丘墓から古墳へ

古墳時代の前の弥生時代(紀元前10世紀~紀元後3世紀前半)にも人々は墓を作っていたが、その大多数は、木や土器の棺または素掘りの墓穴が何十何百と集まった集合墓地で墳丘はなかった。土地に余裕があった近畿東海関東などではこうした集合墓地を溝で囲んだものが(周溝墓、方形が主、円形集計墓もあり)広い平地に群れを成していた。その大小や副葬品の有無に格差のない平等原理がこのころの集合墓地の特徴だ。

農耕が発達し人口が増えた紀元前1世紀から紀元後1世紀、集合墓地の傍らにひときわ大きな周溝墓が現れる。溝より盛り土が目立つ小高い丘なので、墳丘墓と呼ぶ。紀元後1世紀までは長方形で九州に大きいものが多い。紀元後2世紀には、山陰や瀬戸内や北陸などで墳丘墓はさらに発達し、石を貼ったり突出部というでっぱりを付けたりして大型化する。貼り石は古墳の葺石に、突出部は前方部に、後の古墳に受け継がれる重要な要素だ。ただし一般の人々は昔ながらの集合墓地に葬られた。

3世紀、纏向に前方後円墳、東日本に前方後方墳登場

状況が変わるのは3世紀に入るころ。それまでの集合墓地が途絶え、一般の人びとも、中流以上は個人や血縁集団ごとに墳丘墓を作るようになる。中にはより大きなものや突出部をつけて前方後円や前方後方にしたり、周りに差をつけたものが現れる。一族の長や地域の王など地位や力を墓でも表現するようになる。前方後円墳の大きなものは奈良盆地に、前方後方墳の大きなものは東日本に多く登場する。

箸墓は倭の大王墓?

紀元後3世紀中ごろ、ひときわ高く大きく整った形の前方後円墳が纏向に現れる。長さ280mの箸墓古墳。各地の王たちが擁立した最初の大王(倭王)の墓だと言われる。

古墳時代とは

4世紀後半になると、長さ200mを超える巨大前方後円墳を核とした大きな古墳群が奈良盆地や大阪平野に現れる。その勢力のなかから、大王が擁立された。大王を立てた各地の王や有力者たちも、大王との親密さや力の差に応じて、さまざまな大きさの前方後円墳や前方後方墳、円墳や方墳を築いていく。前方部後方部ともに3段で超大型のものから、ついで前方後方、円墳、方墳、と階層があり、支配層でも身分が下るほど小さな円墳や方墳になる。

集合墓地から個人や血縁集団による個別墳丘墓となり、そのなかからひときわ大きく整った王の墓が生み出されるのは、3~4世紀の東アジア、とくに朝鮮半島に共通した歩みだ。漢が滅び(紀元後220年)周辺への統制力を失った中国の傍らで、諸民族が競い合いながら、それぞれ国家へとまとまっていく。このような世界史的な激動の一翼として古墳は現れたのである。




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