3人4首問題

2408.百人一首(3人4首問題)

2)「定家公経で終わる百人秀歌」が1)「後鳥羽順徳院で終わる現行百人一首」と大きく異なるのは
百人秀歌が「101首」で、後鳥羽院・順徳院がなく代わりに「一条院皇后宮・権中納言国信・権中納言長方が入っている」こと、そして「源俊頼の歌が違う」ことです。後の97人は人も歌も同じ、時代順とはいいながら「並びが若干違う」ことです。

これを「3人4首」問題と仮称し整理して置きたいのです。・・結論のポイントは、
3)蓮生宛「家隆雅経で終わる明月記記事」版は、鎌倉にとって犯罪者の後鳥羽院順徳院は入れられない、そして、前記事中程メモ通り揮毫贈呈者たる定家自らの分も礼法上入れられない。そうなると、後鳥羽院・順徳院・定家の3人分足りない。これに代わって蓮生宛にオリジナルに採用されていたのが、一条院皇后宮・権中納言国信・権中納言長方の3人だった、と考えるのが最も合理的です。つまり、蓮生嵯峨中院色紙形は、現行百人一首の後鳥羽順徳定家の3首を除き代わりに一条院皇后宮・権中納言国信・権中納言長方の3首が入ったもので、最後は家隆雅経で終わる、やはり全百首だった、ということです。


少しややこしいかもしれませんが、
以上なら、1)現行百人一首と2)百人秀歌と3)蓮生宛明月記記事版の関連はすっきりします。通説が想定し60年経ってもロクな仮説を得られない「時間的前後や草稿終稿など完成度」による違いではなく、「想定読者や目的」が違っていたから少しずつ異なる版を用意しただけ、なのです。

確認しましょう。

まず2)百人秀歌にあって1)現行百人一首にはない「4首」です。番号は百人秀歌の順です。
53番一条院皇后宮(藤原定子)「よもすがら契りしことを忘れずは恋ひむ涙の色ぞゆかしき」
訳ーー終夜(よもすがら)契ったことをお忘れにならないでしょうから、(私の死後も)私のことを恋しいと流して下さる、その涙のご様子は、きっとゆかしいものでしょう、拝見したい程です。

心ーー一条天皇の定子寵愛は大きく道長の娘彰子と並んで史上初の「一帝二后」の当事者。母は高階貴子(儀同三司の母)。兄弟の花山院射矢事件で落飾するがそれでも一条は愛し子を儲けその子を生んで死んだときの歌と伝える。高貴ながら政治的に不運、が天皇の熱い愛には恵まれるという歌。ここでのポイントは天皇の愛に包まれて死ぬという心幸せな愛の歌という点です。後拾遺集哀傷部の筆頭歌。


何故に、2)「秀歌」と3)「蓮生用」にあって1)「一首」では削除したのか。ーー??

「百人一首」の定子の母#54高階貴子「忘れじの行く末までは難ければ 今日を限りの命ともがな 」と引き合っています。貴子は愛を信じていない悲劇性があるのに、定子は一条帝を信じ切っています。こんな幸せ過ぎる愛は現行百人一首には一つもありません(笑)。

為家らに残す「百人秀歌」や鎌倉武家「蓮生用」にはあっていい美しい歌ですが、強い悲劇性芸術性を強調したい後鳥羽用の「百人一首」には幸せ過ぎて相応しくない、と定家は思ったのでしょう。・・この定子の歌は辞世で不吉だから外したとの説などは真逆の誤りです。事実「百人秀歌」では、53番定子の「幸せな愛を信じて死んで行く」歌・54番三条院の「今を感謝すべき」との月の歌・そして55番に母貴子の「今は幸せだが先は信じられないから今死にたい」の歌が並びます。母と娘の時間順を逆転させてまでその違いを際立たせる定家です。

なお前記事で指摘した親子関係に補足します。ここでの貴子と定子は母娘です。子孫に遺言するウェートが高いのが「百人秀歌」ですが、百人一首とくらべると後鳥羽順徳親子がなく、定家俊成の子と父がなく、代わって貴子と定子が入りますから、全部で一つ減って16組です。念の為。


73番権中納言国信(源国信)「春日野の下萌え渡る草の上に 連れなく見ゆる春の淡雪」
訳ーー春日野には一面に草の若芽が萌え渡っているのに、その上には春の淡雪が乗っかっている、が心無いさまに見えるほどだ。

心ーー春の若草とふんわり乗る淡雪。今にも溶けそうでバランスいいように捉えるのがフツーだろうが、これを連れない・心ないとさらに若草を思いやったところがよい。この繊細さは定家好み、でしょう。新古今に採用。


何故に「秀歌」「蓮生用」にはあって「一首」では外したのか。ーー??

これも優しくいい歌です。だから「百人一首」には向かないのです。鎌倉幹部「蓮生用」としては、春日野の若草は藤原勢で乗っかる雪は鎌倉勢(本来なら天皇や院でしょうが)、鎌倉勢は藤原勢に連れないじゃあないですか、というある種迎合追従もあるのかもしれません。だから、「蓮生用」「秀歌」にはあっていいのです。

また既述通り「百人一首」世界は極度に秋嗜好ですが、以下の俊頼の山桜とこの春の淡雪の歌を残すと春の印象がより強くなります。それも避けたかったのでしょう。「秀歌」は子孫用、「蓮生用」は武家用ですから、春が少し強くてもいい、ですが、後鳥羽や貴族向の「一首」は黄昏の秋が強くなければならないのです。

90番権中納言長方(藤原長方)「紀の国の由良の岬に捨ふてふ たまさかにだに逢ひみてしがな」
訳ーー紀の国の由良の岬に捨ふという、真珠の玉、その玉のようなあなたに、たまでも偶然でもいいから、逢い見たいものだ。

心ーーゆらゆら由良の音、玉(真珠、あなた、たまに)の面白さ、のみ。新古今には採用。


何故に「秀歌」と「蓮生用」にあって「一首」では外したのか。ーー??

「百人一首」の#46曾禰好忠「由良の門を渡る舟人舵を絶え 行方も知らぬ恋の道かな 」と由良で引き合っています。両方とも恋の歌、長方の歌は恋のステージとしては明らかに早期です。「百人一首」の恋歌は恋の発展段階にほぼ沿って描いていますので、90番という奥手では遅すぎ後ろ過ぎる。また真剣な恋ばかりの「一首」では軽過ぎる恋です。「一首」ではあくまで悲劇性芸術性を徹底したいということでしょう。

そしてただ一人、2)百人秀歌と1)百人一首の歌が違うのが源俊頼ですが
秀歌76番源俊頼朝臣「山桜咲き初めしより 久方の雲居に見ゆる滝の白糸」
訳ーー遠い山の山桜が咲き始めてから、遠い雲の合間にも白糸の滝がみえるようだ。

心ーー遠景の山桜がいくつか白く連なって咲き、これが滝のようにみえる、という見立て。金葉集採録。定家らの新古今世代も幻想艶麗と評価する。
一首#74源俊頼「憂かりける人を初瀬の山おろしよ 激しかれとは祈らぬものを」
訳ーー冷淡なあの人のことを初瀬(の観音)に祈ったが、山おろしの冷たい風が吹く、そんなに厳しくとは祈らなかったのに。

心ーー観音様に祈ったがかえって逆効果だった、さらに冷たくなった、でしょうか。定家は「学ぶともいひつづけがたく、まことに及ぶまじき姿也」と誉める、こういう天性屈折したのが独創的に見えて好きなのです。


何故、「秀歌」と「一首」では入れ替えたのか?「蓮生用」にあったのはどちらか?ーー??

山桜の歌も「百人一首」の歌としては、明る過ぎ美し過ぎるということでしょう。百人一首にも明るく美しい歌はいくつかあります(#4#12#15#17#61など前半にある)が、それは出来るだけ前半で抑え込んで全体の悲劇性芸術性を強めたいと定家は思った。俊頼だと順番上どうしても#74前後だから後ろ過ぎる。

またこの山桜を残すと、百人一首の桜の歌は7本となり、3本ずつの満開と散る桜、やはり6本の紅葉の歌とのシンメトリーが失われます、これも定家は嫌った。

対して初瀬の歌は十分暗く屈折し悲しいものがあります。鎌倉調伏を祈って何の験もなく敢え無く敗れた承久の乱を示唆したいのかも知れません(定家の百人一首は後鳥羽に決して甘くはない、後述)。いずれにせよこれが「百人一首」世界に相応しいのです(笑)。


また「蓮生用」に元元あったのは、山桜の方だったと想像します。「蓮生用」は一番天智と百番雅経、二番持統と九十九番家隆が見事なくらい符丁があっていることを指摘したように、ペアリング(つがい)を「秀歌」「一首」以上に気にしています。俊頼の山桜は、#66(秀歌71番)行尊「諸共に憐れと思え山桜 花より外に知る人もなし」#73(秀歌72番)大江匡房「高砂の尾上の桜咲きにけり 外山の霞立たずもあらなむ」と番っていたかあるいは3本組で、蓮生用にあった。そのまま子孫用「秀歌」にも使った。が、この俊頼山桜に限っては、他の96首のようにそのまま「百人一首」でも共用することはせず、ややくせのある初瀬の歌に切り替えた。理由は上述前半通りです、繰り返しません。


(つづく)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?