淵蓋蘇文クーデタから乙巳の変へ

642年淵蓋蘇文の高句麗国クーデタ、641年百済義慈王独裁、同じころの新羅の金春秋金庾信体制、そして645年倭の乙巳の変、いずれも関連し、これが百済高句麗滅亡と新羅半島統一に直結していくというのが最近の通説だ。

煬帝の高句麗攻め惨敗を見た唐太宗(李世民)、貞観時代は魏徴や房玄齢らの諫言あって高句麗攻めを控え朝鮮半島三国は仲良くしろと口先介入するだけだったが、高昌を落とし(640年)西域への道を確保し、前記事諫臣魏徴が死に(643年)(実は太宗もついに高句麗に勝てず後悔して魏徴が生きていれば止めてくれたろうに、と)、いき場を失った軍部将兵も対高句麗復讐を求め、何より淵蓋蘇文が国王弑逆したことを不義不忠と太宗自身問題視し、644年についに高句麗攻めに踏み切る。十数年に渡り千里に及ぶ対唐長城を建設した独立派淵蓋蘇文が親唐穏健派排除し、高句麗も唐との戦争を覚悟していた。

百済義慈王(641-660年)は事実上最後の百済王だが、久しぶりの戦争好き王だったようで、即位前後に王族や貴族を粛清し(異母弟翹岐ら40名を倭に放逐、と紀)緊張高まる唐と高句麗には中立、ついに長く懸案の新羅征伐に踏み切り旧任那40余城を落とし新羅と本格戦争状態に入る(642年-)。

新羅は急拡大のため国内勢力間で緊張が高まりシャーマン善徳女王を立て(632年)ていたが、上記百済義慈王が新羅西部を侵した(642年-)ので、毎年唐に訴えあるいは金春秋を高句麗(642年)に派遣打開を図るが失敗、結局守旧派のドン毗曇を反乱に追い込みこれを粛清し(647年、善徳女王死んで真徳女王を立て)金春秋金庾信による軍事国家に戻す。孤立を恐れて金春秋は倭を訪問(647年)歓待されるが成果なく(紀によれば人質になった、おそらく高官代人派遣で解放され)、翌年金春秋自ら相当な覚悟で唐太宗訪問(648年)、太宗はこの時点で644年から始めた高句麗に勝てず(645年9月撤兵)対新羅政策を見直し、人を見る目のあった太宗だ、金春秋を評価厚遇し、その長男を唐に残すことや唐元号制度を受容れることなど条件についに唐新羅同盟がなった(648年末か649年)。

倭では蘇我馬子聖徳太子の両頭政治から聖徳太子死亡(622年)後の舒明皇極時代、蘇我馬子蝦夷入鹿の独裁体制が強まりついにほとんど唯一の競合勢力だった山背大兄を排除(643年)、都を見下ろす甘樫丘に父子の蘇我宮殿を設けるなど極まり王族古族から総スカン状況に陥った。ここで注目すべきはすでに相当な規模となっていた百済の在倭勢力である。義慈王の子豊章(631年-)義慈王弟翹岐(642年-)同塞上忠勝ら王族が常駐また舒明の百済宮百済大寺の命名が示す通り倭王家にとっても大スポンサー(百済=内宮家)、不満王族=のちの孝徳天智天武らに取り入り蘇我排除を入れ智慧したとしておかしくない。何より淵蓋蘇文や義慈王のクーデタは彼らには現代史だ、怒りに血をたぎらせたとしておかしくない。素直に入鹿惨殺の目撃者古人大兄の「韓人殺鞍作臣」は文字通り百済人が入鹿を殺したと読む(それ以外の乙巳記事の多くは藤原不比等や亡命百済系史官のでっち上げ)。

もう一つ強調したいのは、南下を重ねジリ貧百済(王族貴族)には海外に亡命基地を持つという志向が強いことだ。三つ前の記事には百済が遼西・東青州・済州島にそういう節があると書いたが、九州や倭もその対象だ。紀には敏達12年条、日羅の記事があり「百済欲新造国、船3百隻、子女を載せて、欲請筑紫」云々、古くから日本に寄生ないし一部乗っ取りを考え特に本国から追放された翹岐以下随分お金も突っ込みまじめに構想していた可能性は強いのである。

乙巳の変の主役は決して中臣鎌足や中大兄ではない。中級貴族と少年王族では大蘇我親子は倒せない。多くの王族が束になりひそかに一挙にやったことだ。日本に長く身分も高い豊章が、反蘇我の不満王族を束ね蘇我本家誅殺の大元とみる方がはるかに座りがいい。新羅でも百済でも調や賄賂を持ってくれば十分とする当時の倭の外交を一新させ百済救済に大軍(実は引揚船団?)を派遣させるまで導いたのは当時の豊章(ら百済の王族貴族移民たち)。中華史書は豊章は白村江敗戦後高句麗に逃亡行方不明とか唐に連行嶺南流刑とかいうが(影武者?)、豊章は倭語もでき倭王族とも近かったはず。たくさんの亡命百済人+膨大な財産とともに日本に引揚げいわゆる藤原鎌足と名を変え亡命百済人のレジェンドとして天皇藤原体制を作り上げていった・・。おそらくこの辺が真相だ。

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