蓮生百首から隠岐後鳥羽10首

2419.蓮生宛百首のうち隠岐後鳥羽10首

前記事、各論のなかから一例として、ご参考まで。

承久の敗戦で隠岐に流された後鳥羽院を偲ぶ、表裏10首です。蓮生の邸宅襖にはこの順で2首ずつ5組、10首、襖見開き2枚に連なって貼り付いていたと想像します。

表とは前半・旧古・左の歌人歌、裏とは後半・新・右の歌人歌です。番われた表裏2首ずつ、一挙にみましょう。(数字)は「蓮生宛百首」での推定順番です。

(12)小野篁「わたの原八十島かけて漕ぎ出でぬと 人には告げよ海人の釣船」
(大海原を沢山の島を目掛けて漕ぎ出たと 家族友人部下達に伝えて欲しい、漁師の釣り船よ。)
(89)藤原忠通「わたの原漕ぎ出でて見れば久方の 雲居に紛ふ沖つ白波」
(大海原に漕ぎ出でて見れば、遠くの雲と見分けのつかない沖の白波だ。)

篁は、壊れた遣唐使船に乗ることを拒否して隠岐に流された、その時の歌、と伝わります。ここでの「人」は部下友人家族でしょう。間違ったことはしていないと、堂々たる船出の景色、です。隠岐に遠流された後鳥羽の姿そのもの、です。

忠通は法性寺入道関白太政大臣:平安末期、摂関政治最後の太政大臣、です。これも堂々たる歌ですが、雲居と白波の見分けが付かない、とは、勝ち負けも有罪無罪も立場見方による相対的なものだ、と示唆しているのでしょう。古い犯罪者の小野に対し後の藤原の氏の長者が慰めている、詫びている、超越してくれ、とも読めるかも知れません。

ここでは、沖(隠岐)の白波、ですから隠岐の後鳥羽を指し、鎌倉に対してはもう許して差し上げれば、と提案してもいるのでしょう。


(13)在原行平「立ち別れ因幡の山の峰に生ふる 松とし聞かば今帰り来む」
(立ったままでの慌しい別れ。因幡(稲羽山、往なば)の山に生える有名な松ですが、あなたが待っていると聞けばすぐに帰って来ますよ。)
(88)基俊「契り置きしさせもが露を命にて 哀れ今年の秋も去(い)ぬめり」
(約束を、もぐさに置いた露のようなものとは知りつつ命としていたが、あわれ今年の秋も過ぎてしまった。)

行平は、不本意ながら因幡に赴任する時の歌。慌しい立ったままでの別れと、呼び返してくれるならいつでもすぐに帰ってきます、早く呼び返してください、の意、です。後鳥羽の旅立ちであり、その思いそのもの、でしょう。

基俊は、息子のための猟官運動の歌。今年の春(人事異動は正月や4月)の人事でも出世できなかった、早いものでもう秋今年も終ります、来年こそよろしくね、の心です。後鳥羽の気持ちでもあり、後鳥羽還御を鎌倉に掛け合う京都貴族達の思いでしょう。なお、「契り置き」の置きは隠岐、でヒントのつもりでしょう。


(14)在原業平「千早振る神代も聞かず龍田川 唐紅に水括るとは」
(巫女が布を振ったという神代にも聞いたことがない、紅葉が浮かんで真っ赤な紅の括り染めのように、龍田川が染まり流れるのは。)
(87)讃岐「我が袖は潮干に見えぬ沖の石の 人こそ知らね乾く間もなし」
(私の袖は、潮が引いても見えない沖の石、人は知らないでしょう、(涙で)乾く間もない。)

真っ赤な紅葉と濡れっぱなしの沖(隠岐を示唆)の石の失恋歌も、こう番うと違った意味を持ってきます。

真っ赤な川、とは承久の戦争の血かもしれず、流す血の涙かも知れません。むしろ、ここでは「神代も聞かず」に意味があって、後鳥羽院を隠岐に流刑して十数年も経つのに鎌倉は放置したままだ、そんな無体な(ひどい)ことは神代の昔にもなかったことだ、でしょう。

讃岐の歌も、隠岐の石ですから後鳥羽院も血の涙を流しておられる、と読ませたい、のでしょう。


この辺は、鎌倉に対して、定家として珍しくへりくだって、京の貴族の思いとして、後鳥羽還御を陳情している、と読んでいいでしょう。・・この辺の番いは、歌職人定家の悪魔のような天才、を感じます。


「蓮生宛百人一首」が渡されたのは、鎌倉から「後鳥羽院の京還御など、一同考えたこともない」との明白で強い拒否回答、があった直後の、1235年5月27日と明月記は記します。が、ここもどうでしょう。凝り性定家のことですから、もっと前から準備して手元に持っていたが、鎌倉の意向が示されてしまったので、慌てて、蓮生に持ち込んで再考の可能性を打診した、というようなことかも知れません。何れにせよ、定家としては、後鳥羽還御運動と関連あるものだ、というヒントの積もりで、微妙なタイミングでの記事を残したのでしょう。


続けて、4、5番目のペアリングです。
(15)敏行「住の江の岸に寄る波 夜さへや 夢の通ひ路人目 避(よ)くらむ 」
(住の江の岸に繰り返し寄せる波、昼だけでなく夜夢の中の通う道でも、人目を避けるのだろうか。)
(86)周防「春の夜の夢ばかりなる手枕に 甲斐なく立たむ名こそ惜しけれ 」
(春の夜の夢のようなお話ですが、浮気な貴方の手枕などで共寝すれば、すぐあらぬ噂が立ってしまいます、自分の名誉を大事にしたい(からお断りします)。)

敏行周防のペアなどとばして、次の陽成院崇徳院のペアに直接繋げればわかりイイと思うのですが、そうしないで、これを挟むのが、秘密主義で韜晦的な定家です。

敏行は、読み方の難しい歌ですが、女歌で、慎重すぎる恋人を誹る歌、とここでは読むべきなのでしょう。つまり普通の人々は波のように寄せては返し人目も気にしないのに(夜を導き出す序詞だから意味はないなどというのは間違いでしょう)貴方は夜は勿論、夢の中でも、人目を気にする、慎重過ぎて嫌、の心。

周防は、ドンファン相手にうかうか誘いに乗ると、裏切られて、自分の名誉を失うから、嫌、の心。

定家は自分を含めて京貴族を女に見たてて、鎌倉の慎重さあるいはドンファンのような無責任さを、咎めている、と読めましょうか。

あるいは定家を敏行、蓮生を周防、と見立てて読んで置くことも可能です。つまり、定家(京貴族たち)は人目もなど気にせずに、後鳥羽還御せよ、と鎌倉を突き上げたが、蓮生(鎌倉)は、そんな無責任な京貴族の言いなりになって、あとで大変なことになる、と断って来た、と言っているのかも知れません。そうなると、百人一首、この蓮生宛百首、も、後鳥羽還御不可、の正式通知のあった後の作品、と通説通り、となります。

またそうなら、後鳥羽還御は、春の夜の夢、だったという、周防の歌が生きて来ますね。ううむ、これが正解かも(^-^):なるほど定家の編集は神技、ですね。


(16)陽成院「筑波嶺の峰より落つる男女(みな)の川 恋ぞ積もりて淵となりぬる」
(男山女山の別々の筑波の峰より流れ落ちるが一体となる男女川のように 恋は積もり積もって下流では深い淵となる。)
(85)崇徳院「瀬を早み岩に堰かるる滝川の 割れても末に逢はむとぞ思ふ 」
(瀬は急流で岩に遮られて二つに別れる滝川だが 末にはまた合流しようと強く思う。)

通常は、激しい男女恋愛、再会歌、と読めばいいのですが、ここでは、後鳥羽還御の期待でしょう。後鳥羽と京貴族たちが京で再会できる、あるいは還御拒絶のあとには、この世ではなく来世とやらでお目かかりましょう、です。京貴族の思いのみならず、後鳥羽本人のお気持ちでもあろう、の気持ち、です。あるいは、場合によっては公武合体の希望、を言うのかも知れません。

なお、陽成院は、行儀の悪いお方、源氏武家のご先祖; また崇徳院はその武家たちのせいで保元の乱で敗戦、讃岐に配流された訳で、後鳥羽とカブります。歌と名の通り、この世に祟ります。崇徳院後鳥羽院の名誉回復がなされるのは武家政府の終わった明治復古政府、によります。

----------------------------------------------------------

なお、ちなみにオクラ「百人一首」とサガセンゾー「百人秀歌」にも目配りしておけば、

「蓮生宛百首」では、人生論が終わった後のトップ記事として、後鳥羽還御要請関連5首が 上述通り
(12)篁(13)行平(14)業平(15)敏行(16)陽成院、と並んでいたと推定。
これが韜晦目的他の理由から、移動分断され

「百人秀歌」では、少し前に出て、

7番篁8番猿丸9番行平10番業平11番敏行12番陽成院、
「百人一首」では、さらに撹乱韜晦されて、

#11篁 #12遍昭#13陽成院#14源融#15光孝#16行平#17業平#敏行、
ですが、注意深くみてもらえば、篁ー行平ー業平ー敏行の順番は維持されている、陽成院は結論部分(再会)で独立性は高いから自由度が高い、とみていいでしょう。

とくに後半の番い各句の順序、は、時系列的にはデタラメバラバラになることが必然なこと、既述通りで、略します。

(恐縮ですが、百人一首や百人秀歌の序列等、今やネットでいろいろあるとおもいますので、ご興味の向きは適宜ご参照ください。)

(つづく)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?