壬申の乱はなぜ乱か?

「壬申の乱」をどう見るか。反乱軍天武が勝ったのになぜ「乱」というのか(政権変更があったから「変」のはず)?、国史がいつから壬申の「乱」といっているか知らないが、持統を持統と名付けた淡海三船(=大友皇子曽孫)流「天皇藤原史観」をずっと引いているからではないか。奈良時代は天武系や古族支配も続くが、持統不比等の強い思いで「天皇藤原支配の基本」は周到に用意され、やがて光仁桓武以降で安定して達成される。

ここは天智と光仁以降歴代天皇の位牌はあっても天武から称徳に至る天武系天皇を見事に外す(お祀りしない)泉湧寺の姿勢と同じだ。「天智藤原史観」からすると、天武の血筋は間違いだった、かろうじて正統を維持したのが「持統」だがそれも藤原4兄弟病死によって潰えた、光仁以下の復活を待つしかなかった。だから天武壬申に始まる奈良朝約百年は長いがあくまで乱、それゆえに、壬申は変ではなく乱の始まり。これが天皇藤原史観=記紀史観=伝統国史史観だ。以下、主な理由を書く。

1.天皇位は兄弟横継承でなく、父子直系継承が正統。

天智天皇の皇子大友を天智天皇の弟大海人が破ったのだから、父子継承は否定され兄弟継承が勝ったのが壬申の乱(rac的には大海人は実は天智の同母兄で漢皇子と考えるから弟から兄への継承だが)。当時の常識は倭国王位は兄弟継承が基本、兄弟同世代がなくなって後、次の世代に行く。次世代に適任がいない、競合が強すぎてかえって不安定、の場合には女王女帝も認める(いわゆる中継ぎ女帝)。

もう一つ大事な点は大友は母が皇族ではないこと、しかも名門とも言えない低位の伊賀采女宅子の子だから、これまた当時の常識では皇位にはつけっこない。

血統に加え、当時は年齢経験も重要条件であり(中大兄もなかなか皇位につけなかった通り)この面でも、大友は無理筋で、常識的には大海人が継承者であった。

天智という人は理想肌で常識破り暗殺もOKのひとで常識に反するが実子大友を後継者にしたがったのだ、と記紀はいう。大友は壬申の乱では負けたが、この考え方をそっくり採用したのが持統の草薙以下直系継承天皇の試みだ。持統と不比等は記紀編纂で天皇史を整理するとともに、唐制(嫡男継承)律令(法令による人民支配)中央集権(ヒエラルキー官僚俸給制)を強化し、いわば実力なくても天皇は務まる仕組みを作り上げていく。基本にあるのは天智の大友への思いと同様に持統の草薙への思い=自分の直系男子に継がせたいという単純な思いだったのだろう。これを天智発案の「不改常典」にまで理念理想化したのが不比等だ。

2.親百済が正統で、親新羅はダメ。

記紀の一貫した外交主張は親百済で、新羅はとにかく気に入らない。記紀編纂(特に外交)は旧百済系史官による、そのボスが鎌足=豊章の子不比等(史)だから、当然といえば当然。百済亡国から1,2世代、まだ新羅を倒して半島回復もありうると信じた人々の手になる。対して天武は親新羅、決して正統とはいえないというその主張だ。

しかし藤原鎌足自身はどうだったか。中臣を名乗り藤原の賜姓を手に入れる。白村江敗戦の戦犯だから名を変えるのは当然。だが、鎌足は早々に天智を見限り天武に娘二人を嫁がせるほどに目先の利く男だ。頭から自分が百済王家出身であることを韜晦している。「藤氏家伝」は740年恵美押勝(藤原仲麻呂、鎌足の曽孫)編だが仲麻呂自身、日本人中臣出身であることを疑っていないから、鎌足不比等は他人だけでなく身内をも韜晦しきったことは確かだ。

そして平安時代815年「新撰姓氏録」にまで下ると、藤原は「神別天神」、百済系は憎ックキ新羅系と共に「諸蕃」とされ、同じ百済出身でも随分と差がでる。さらに時代が下り皇国意識が強まると新羅憎しはいつの間にやら朝鮮蔑視に化けていく。これも記紀皇国史観のゆえ、と断言していい。

3.草薙直系にこだわり女帝ばかりはいかにもマズイ。

天武自身はたくさん息子がいたから有能な子孫ならだれでも継いでくれていいと思っていたに違いない。しかし持統は自分の子草薙直系に拘り、不比等は藤原腹に拘った。それゆえに理念は理念のまま「つなぎの女帝」ばかりが続くといういびつな形になった。これはいかにもマズイ、直系継承や藤原腹は「天皇藤原体制」の肝だが、こだわりすぎて皇統が絶えたり柔軟性を失ったりでは本末転倒。この点、奈良天武朝は間違いだった、というのが、その後の天皇藤原史観だ。

もう少し敷衍しておく。持統と不比等が仕上げた「天皇藤原体制」は天智と天武のいわばいいとこどり。天武からとったのは、戦争で勝ち取ったから名門古族に頼らず左右大臣さえおかずにやっていく皇親政治、「大君は神にしませば」の神秘性絶対性から道教占い遁甲、太陽や自然崇拝など多くの人々に受ける素朴雑多な宗教的感覚。そしてこれは天武というよりこの国の伝統、詩歌による情感表出、万葉集や懐風藻を動員して政治活用する宣伝手法。こうして持統不比等の天皇藤原体制・記紀国史史観は肉付けされていく。最初から(現実はそうではなかったが理念として)完成度は高く、逆説的だがこれが奈良時代=長き壬申の乱の本質だ。

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