成務紀

成務紀は内容・量とも薄く、成務も実在が疑われる天皇の一人。しかし崇神に始まる一纏まりの物語としては大事なシメの意味がある。「記」冒頭序に安万呂は言う、「夢に覚りて神祇(アマツカミクニツカミ)を敬い賜い」とは崇神のことであり、「境を定め邦を開きて近淡海に制(おさ)め賜い」は成務のことだ。画期として意識しているのである。紀より以下。

1)成務天皇は景行の第4子。母も崇神の孫だから皇族。景行の皇子と言えヤマトタケルで紀本文中でも何度も王と書かれるが、若死にしたことに加え母が丹波媛で皇族でないことが問題なのであろう、外している。崇神一派は天孫思想で血筋を重んずるはずだが、倭の有力豪族を取り込むべくここまでは大和磯城(シキ)や尾張・丹波・播磨媛を皇后にしその皇子を継承者に選んだがもうそこまで気を使う必要はなくなったということでもあろう。

2)武内宿祢を大臣にした、天皇と同日生まれで特に寵愛した、とわざわざ書く。

3)諸国に令して国造と郡長、県主、邑には稲置(イナギ)をおき、楯矛を賜いて表となす。すなわち山河を隔(さかい)して国県を分かち東西南北や日当たりのよしあしなどで邑里を定めた。こうして百姓は安堵し天下事もなし、となったのだ。

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成務紀は以上でほぼすべてだ。繰り返すが、崇神の冒頭「國內多疾疫、民有死亡者、且大半矣。百姓流離、或有背叛、其勢難以德治之。」と見事に呼応して、成務の末尾「是以、百姓安居、天下無事焉。」で〆る。実際は国造県主稲城などもっとあとなのかもしれぬがその原型・思想を持ち込んだ、崇神から成務までの期間はそんな時代だったのだとの(史実というより)歴史認識=政治的主張と記紀を読めば、なるほど成程なのである。

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