景行紀 熊襲親征

崇神垂仁をいったん離れ、次の景行紀ヤマトタケルの物語を見ます。何とも異邦人のにおいのする崇神垂仁紀は、疫病流民・出雲国神との確執・新羅や任那からの来訪者を語りましたが、次の世代景行紀は武力による国内統一、熊襲や東国征伐の話です。紀より以下。

1)景行天皇は、垂仁の第三子、母は四道将軍丹波道主の娘。景行の妃は播磨某姫(吉備津の一門)で大碓(オオウス)小碓(コウス)の双子を生む。この小碓がヤマトタケル、「幼くして雄略、壮に至りて容貌魁偉、身長一丈(2.5m;景行も1丈2寸と紀は書く、倭人離れした大男たちである)鼎を持ちあげる」。

2)景行、紀の国に御幸して諸神祇を祭祀しようとしたが不吉と出たのでやめて代わりに国神系の某を派遣しこれが紀の国で武内宿禰をなす(成務天皇と同日の生まれ)

3)景行は、美濃に出向き弟媛を召すが弟媛のほうは「不便、不快」と思って「妾、性、交接の道を欲せず」と、代わりに姉を提供。また大碓を遣って美濃国造の娘を召す大碓が横取り。景行はこのほか安倍・日向・襲・などの娘を妃とし、実に80人の皇子皇女をもうけた。これらが別け国造藩屏になっていく。在纏向、纏向を拡張した、とも紀は書く。

4)熊襲反乱(紀「熊襲反之不朝貢」、記は、父の女を横取りした大碓を小碓が殴り殺し、景行には感謝もされず乱暴者扱いされ、いきなり熊襲征伐を命じられ、クマソタケルを少女に化けてだまし討ち、熊曾建のほうはかしこまって自分の名を譲る、小碓は以後ヤマトタケルを名乗る、という話のみ)。少し詳細に、場所は現代地名で。

景行12年7月反乱を知る、9月には山口県防府市に布陣、ここで神夏磯媛との同盟を確認する、これが邪馬台国との手打ちと読む。大事なので紀から原文引用↓

5)QT九月甲子朔戊辰、到周芳娑麼。時天皇南望之、詔群卿曰「於南方烟氣多起、必賊將在。」則留之、先遣多臣祖武諸木・國前臣祖菟名手・物部君祖夏花、令察其狀。爰有女人、曰神夏磯媛、其徒衆甚多、一國之魁帥也。聆天皇之使者至、則拔磯津山之賢木、以上枝挂八握劒、中枝挂八咫鏡、下枝挂八尺瓊、亦素幡樹于船舳、參向而啓之曰「願無下兵。我之屬類、必不有違者、今將歸德矣。唯有殘賊者、一曰鼻垂、妄假名號、山谷響聚、屯結於菟狹川上。二曰耳垂、殘賊貧婪、屢略人民、是居・・・UNQT

「南の方に煙が立っている、必ずや賊がいるはずだ」と景行天皇が群卿にいい、先遣隊として多氏国東氏物部氏の祖たちに偵察させたところ、一人の女が船に乗って登場。名を「神夏磯媛」といい、その徒衆甚だ多く一國の魁帥(王というに足る)。天皇の使者が来たというから、磯津山(北九州市小倉の山?)の大きな榊を根こそぎ抜いて上のほうには八握劒(ヤツカノ剣)、中には八咫鏡(ヤタノ鏡)、下枝には八尺瓊(ヤサカニ勾玉)を掛けまた舳先には白旗を掲げて参り申し上げるには「兵を進めるのはやめてほしい。われらが一門は間違ったことは決してしません。いまここに帰順する。ただ残敵は4人いて、鼻タリ、耳タリ、云々」

この「神夏磯媛」こそ卑弥呼「台与(トヨ=豊国の豊)」あるいはこれを引く邪馬台国の女王、北部九州連合国の代表者。しかもここに「三種の神器」そのものといっていい剣鏡勾玉を掲げてきたと紀は明言。なお神様や天皇以外で、紀が「神」の文字を使うのもこの媛くらい。

そして宇佐山奥の鼻垂、中津市北西御毛の耳垂、田川?上流の麻剥、小倉紫川?上流の土折猪折ら4名の山賊ないし反北九州近畿同盟の賊徒を纏向ヤマト軍に伝え協力。景行軍はこれを誅滅、景行もついに九州島(筑紫)に上陸、京(行橋市、ミヤコ平野)に行宮。

6)10月大分に入り土蜘蛛らを征伐、11月日向国高屋(西都原?)に行宮、12月熊襲に入り、景行自らクマソタケルの娘を篭絡し裏切らせ(娘の?)一従兵が熊襲タケルを殺し、翌13年5月には襲国を平定。高屋宮を基地として6年滞在し熊襲全域を平定。

7)景行18年3月筑紫国をみてから帰国しようと思い、小林市?(夷守)人吉(熊縣)経て八代に抜け北上島原半島にもわたり返して阿蘇を拝し18年7月いよいよ(邪馬台国の牙城?)筑紫平野に臨み、三木国高田宮(三池の大牟田)に行宮。八女・大川・久留米・浮羽など巡行し約1年滞在。19年9月に日向(高屋宮?)から纏向に還御した、と紀は記す。

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どういうわけか記はヤマトタケル熊襲征伐だけを書き、先行するこの景行熊襲親征に一切触れません。しかし話の具体性からここは史実と読みます。以下の不思議なことが多いからこそです。

第一、このとき、景行らは北九州湾岸・関門海峡から先に行っていない。牙城として邪馬台国は景行軍の北九州沿岸地域への侵入を認めなかった。裏口から迫ったのですが、筑後川をわたってその先福岡平野には入っていないように見えます。

第二、邪馬台国側がどこまで本気で景行軍の熊襲征伐に協力したかも見えません。朝鮮半島側での防衛が大変で一切協力できないが、景行が南九州を自力で切り取るならご勝手に、なのではないか。

第三、帰国も不思議なことに日向(高屋宮)から帰っったと紀は書きます。福岡県ウキハまで来たならそのまま日田経由で行宮のあった京(行橋市、ミヤコ平野)に出るのが便利なのにそうはしていない。この時の景行天皇の九州巡行と往復ルートこそ、日向天孫降臨と神武東征神話の下敷きになっていく、と想像できるのです。


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