崇神から成務紀までまとめ

「民の大半が死んだという疫病難民戦乱」の崇神から始まって成務の「百姓安らかに居て、天下無事焉!」で〆める。ここまでが一つのお話だ。記紀編者の意図を一度総括しておく。

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地方地方に豪族たちが分かれて棲み、緩やかな倭国連邦、大概のことは関係するボス談合で決めていく、そんな牧歌的社会は、「気候寒冷化」と「民族移動」、「中国漢王朝弱体化」のなか、軍事的政治的大混乱が大陸半島からじわっと日本にも押し寄せ、変わらざるを得なくなっていた。

日本にはあまりなじみのなかった「武力による強制」「まつろわぬボスたちは殺してでも排除する」「地方優先でなく中央優先」そのための「戸籍徴税徴役徴兵」、そのための「地方組織強化と中央集権体制」、これらをこの国に持ち込み定着させたのはまさに崇神垂仁景行ヤマトタケル成務の時代だった。

鉄器も入り生産力も拡大、灌漑や池溝なども格段に進み、「豊葦原瑞穂の国々」は「中央集権的な前方後円墳体制国家」に化けた。これが崇神から成務への時代だったというのが記紀の時代認識だ。

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少し先回りして言っておこう。・・

そしてこの後が「倭の五王」の時代だ。「秀吉」の朝鮮出兵、「明治」の征韓、ににて、国内が落ち着いたら、朝鮮半島に出るというのが、過去この国の必然なのか。が、どの時代も、やりたくてやったわけではない、と弁明しそうだ。明治・秀吉・倭の5王、いずれも「外圧」が先にあったといっていい。

「倭の5王」の時は、漢魏晋帝国が次々崩壊し漢民族や北方民族が朝鮮半島を下り日本にも強い緊張を与えていた。「秀吉」の時は大航海時代、スペインやポルトガルが東アジア・日本にやってきた。「明治」の朝鮮進出は英仏露米の帝国主義と世界分割があった。

今はもうそんな時代ではないと信ずるが、過去いずれも「武力軍事」が切り札になったのも已む無いことだ。日本を取り巻く周辺は皆そうだった、そしてある種圧迫感危機感をもって、それなりの国内統一を図り富国強兵、そして半島に出た。秀吉の時もそう、明治維新もそうだった。そして倭の5王の朝鮮進出もその前に崇神から成務に至る国内統一の時代があった。

統一されない中国の各勢力、「高句麗」も強く大陸への防壁になってくれたと同時に南下圧も強く「百済」や「新羅」を圧迫し続ける。それまでの倭人たちの牧歌的で緩やかな連邦国家群は、崇神から成務に至る一派によって、軍事化・集権化・国家化が進み、豊葦原瑞穂の国々は水田と大古墳が立ち広がる体制国家に再編された。そして強まった国勢軍事力は外へ向かうことになり、記紀でいう「神功皇后」の時代、ついに「北九州邪馬台国連合」を撃ち、その事実上の「同胞同盟先であった弁辰や新羅」をも呑み込んだのである。


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