蓮生宛百首(人麿と良経、赤人と実朝)

2411.蓮生宛百首(人麿と良経、赤人と実朝)
歌道山柿の二聖として(3)柿本人麿と(4)山辺赤人を番っていると通説はいいます。その通りなのですが、ここでも定家は加えて、(3)人麿と(98)良経、(4)赤人と(97)実朝、のペアリングを配した、と思うのです。以下です。


(3)柿本人麿「足引きの山鳥の尾のしだり尾の 長々し夜を一人かも寝む」
(足を引きずるほどの長い尾を持った山鳥キジ、雄雌分かれて夜寝るというそのキジのように、この長い夜を一人で寝るのかなあ)
(4)山辺赤人「田子の浦に打ち出て見れば 白妙の富士の高嶺に雪は降りつつ」
(田子の浦にひょいと出て見ると、真っ白な富士山が目に入った、あの高嶺には雪が降っているのだろう)
(97)源実朝「世の中は常にもがもな渚漕ぐ 海人の小舟の綱手愛(かな)しも」
(世の中はいつもと同じであって欲しい、小舟を引き上げる海人たちが綱手を引いて渚を漕いでいる姿が愛しい)
(98)藤原良経「きりぎりす鳴くや霜夜の小筵(さむしろ)に 衣方敷(かたし)き一人かも寝む」
(こおろぎが寂しげに鳴く霜夜、寒い中小さな筵に自分のみの衣を敷き、一人寝るんだなあ)

なお各冒頭(数字)は「蓮生宛百首」の中でrac想定の順番です。


人麿と赤人が歌聖として番うのはいいが、それだけでは両歌の関連性は見えません。二歌聖というだけでは、天智持統が親子というだけに似て弱い。ここも4首として、メッセージを読み取らねばならないのです。

「ひとりかも寝ん」の人麿の歌と良経の歌(#91、百人一首の順)が引き合っているのは子供でもわかることでしょう、だから、元々は良経の歌は人麿の歌とペアリングを想定されて後ろから3番目にあったと考えるのが素直で論理的です、そこで「蓮生宛百首」では(98)と推定します。

両首、男の一人寝です。恋歌と読むのが普通でしょうが、どうでしょう、旅の途中でもおかしくない。山鳥や蟋蟀はこの印象を強めます。そうなると、恋歌を超えて、人の一生の孤独、をここでは定家は言おうとしているのでしょう。

赤人に誰を合わせるかは異論もありましょうが、実朝(#93)を合わせます。実朝のこの歌は定家選定の「新勅撰集」では羇旅に部立てしています。定家は両歌を湾(駿河湾と相模湾ということになりましょうか)の景色と想像した。

万葉の赤人は旅の途中で突然視界が広がり新鮮に驚き遠く天下の富士山をみてその高嶺の白い雪、を思う。万葉風の規模の大きな気高い歌です。方や今(1200年頃)の実朝は江ノ島あたりの漁師の姿で、夕方漁を終え小舟を引き揚げる彼らの手元を、近くに見ています。見たては遠近、自然と人間、恐らくは朝と夕方、と対照的、雪が降るや綱手を漕ぐの細かな動きを見ている繊細さ、は共通です。ペアリングとして十分成立します。
実朝は定家の弟子、言うまでもなく若くして暗殺される将軍です(1219年、27歳)。良経は定家の主筋九条家の当主でしたが、これも才を惜しまれつつ若くして亡くなります(1206年、37歳)。何れも定家のことを尊敬し大事にしてくれた若者たちで、定家にとっても二人の突然の死は悲痛な悲劇でした(良経の死に落涙したと明月記に書きます)。二人は後鳥羽院の下で、それぞれ東と西の宰相、生まれのいい貴公子、でもあります。

方や、人麿は持統頃、赤人は聖武頃、という以上に詳細不明。家持は倭歌の学びの道を山柿の門と称し以後二人は歌聖と並び称されますが身分はあまり高くはなく、二人とも神秘で旅の歌人、の印象があります。定家も当然そう思っていたはずです。

以上、
(3)(4),(3)(98),(4)(97),(98)(97)と味合うと、歌の道の遥けき、人生旅の如き孤独、湾に望んでの当たり前の遠景近景の愛しさ、若くして死んだ東西の名門貴公子二人、万葉の旅の聖歌人二人、何とも味のある豊かな4首を形成しているのです。・・頭尾4首ずつ塊として読む、この発想が今までなかったのです。

そして
前記事、天智持統と家隆雅経をひと固まりとして読む読み方と合わせれば、定家のメッセージは十分明らかです。民を思い明るく平和な天皇藤原体制はすでに終わった。変わらぬのは、人の人生の旅のごとく、そしてその孤独と若い才人の無念の夭折。当たり前の自然の風景と人々の日々の暮らしの有難さ、こんなに美しく愛しいものはない。・・万葉の伝説的4人と定家熟知(顧客たる蓮生にも馴染みだったはずです)の4人によって、冒頭末尾で明確な時代観人生観を提示しているのが、「蓮生宛百首」だったのです。公開前提のかなりの自信作だったから明月記にわざわざ「天智より以来家隆雅経に及ぶ」と書き遺したのでしょう。

(つづく)

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