ヤマトタケル

承前。紀の景行紀の記事を続けます。


7)纏向に帰国後5年ほど、記事はひとつだけです。皇女(巫女)の一人に天照大神を祀らせた、です。

天孫降臨神話、特に北欧神話かギリシャ神話のように「天界」高天原があって神々が人間と同じに思考し行動するのは北方系で崇神一派が持ち込んだ(そして出雲国神と相性が悪かった)ものと想像、景行の九州巡行は印象的だったようで、神夏磯媛(邪馬台国)の「三種の神器」を取り入れ、「日向が気に入り天孫降臨の地」に定め、彼らの宗教のいわば現地化日本化を進めた。それがこの5年間たった一つの記事の意味、と読みます。

8)紀國生まれの武内宿祢に北陸と東国の地理人民調査をさせた。帰任して武内宿祢曰く「東遠方に日高見(ヒダカミ)国あり、椎結(ツチユイ)文身(木椎型に髪を結い前進入れ墨)勇敢、土地は沃壌、蝦夷(エミシ)という、撃ちて取るべし」と

9)九州巡行から8年後、熊襲再度反乱、辺境を侵す。ヤマトタケル16歳の登場です。冬10月日本武尊(紀ではこの漢字で最初からヤマトタケルとして登場)に熊襲征伐を命じ、ヤマトタケルは美濃の弓の名人や尾張の軍団を率いて12月に熊襲入り。地名もないまま(クマソタケルではなく)川上梟帥が宴、童女の姿に変装したヤマトタケルがこれを暗殺、名を贈るくだりはあり、日本武尊とはこうして名付けられたとの因縁話。3か月で熊襲平定。ただし帰任報告に、難波と吉備の海神に邪魔されたといいこれを殺し(近畿から)九州への水陸の道を開いた、と。

10)その12年後、東国反乱。兄大碓の番と期待されるが怖がって出陣せず、景行はヤマトタケルに吉備氏大伴氏らをつけて東夷征伐を命ず。伊勢神宮で倭姫から草薙剣を受け、駿河入り。焼津で焼き討ちに遭うが草薙剣で薙ぎ払い、相模から上総に船出するが暴風雨に遭い妾の弟橘媛が身投げして助かり、陸奥では水陸激戦となるが現人神の子と名乗り(この前後紀はヤマトタケルを王と書く)、蝦夷平定、日高国から常陸武蔵甲斐、碓氷峰で弟橘媛を想って吾嬬(あづま)やといったので東国をアヅマというようになった、信濃で吉備軍は越を回りヤマトタケル軍は白鹿に化けた山神を退治、吉備軍と合流して尾張に還御。

11)近江胆吹山に荒神がいると知って(征伐のため)出向くが草薙剣を持たずまた白蛇に化けた荒神を(殺さずに)跨いだだけにした。結果凍え衰え痩せ尾張伊勢から纏向に向かう途上鈴鹿で崩ず、歳30才。死後白鳥となって倭・河内に飛んで行った。景行はヤマトタケルの武勇巧名を残そうと武部を定めた(天皇直轄軍か?)。草薙剣は熱田神宮に、伊勢神宮・朝廷に寄進した蝦夷は行儀が悪いので播磨讃岐伊勢安芸阿波に移した、これが五国の佐伯部の始まりだ。なおヤマトタケルの子に後の仲哀天皇がいる。

12)ヤマトタケル死後10年経ち、景行天皇はヤマトタケルが平定した東国が見たいとし、伊勢・東海・上総・安房を5か月巡行し、伊勢に10か月行宮。また皇子複数を東国に送り治めさせた、みな善政を敷いた(上野毛氏の伝承か。記にはない記述)。

13)宴会をして後の成務天皇と武内宿祢が来ないことがあったが、景行が尋ねると、宴会時には皆酔って油断する、何があるか分からぬから警戒しているだけ、と。景行曰く「灼然」(イヤチコ)、以後格別に寵愛した。

14)景行晩年3年は近江志賀に都した、高穴穂宮(大津穴太)。

15)諸国に田部(直轄農民)と屯倉を置いた。

なお、記には、ヤマトタケルの熊襲征伐帰路、東国征伐の前に、出雲征伐がある。これもだまし討ち。友となり出雲猛とヒノカワで水浴びしヤマトタケルは出雲猛の刀をとり出雲猛は詐わりの木刀をとらされ戦い、出雲猛を打ち殺した、と。

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以上景行紀はヤマトタケルの国内征伐戦が大部分で景行は子沢山の印象が残る程度。紀はそうではない、景行こそ熊襲征伐を先にやった、東国にも景行は巡幸した、と強調する。固有名詞はともかく、ポイントはそれまで地方優先ボス談合の日本では一般的でなかった「軍事力」で「全国規模」で制圧したと語る点。その象徴がヤマトタケル。

出雲戦は景行時代でなく、崇神以前の古い話、を、同じまつろわぬものたちとしてここに熊襲と蝦夷と並べて卑しんだ。しかし、出雲振根が筑紫に行っていないとき隙を窺ってとか、刀を取り換えて木刀を持たせて打ち殺したとか、崇神垂仁は長く出雲の祟りを畏れ、ヤマトタケルさえところどころ国神との確執を記す(最期は伊吹山荒神に憑かれて死ぬ)。

いずれも異邦人の流れだったから、とするとより納得がいく。

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