3種の百人一首

2405.百人一首(3種の百人一首)
百人一首は1235年頃藤原定家の編集でなったことは専門家の間でも異論はないらしい。しかしそれがどういう目的や意図だったのかという点になると専門家も曖昧・・。
いわく、歴代秀歌集でお手本集だ、いや変な歌や歌人も入っている、同じ歌人でももっとましな歌があるから秀歌集などではない、承久の乱で敗れ遠流となった後鳥羽院(と順徳院)を偲ぶものだあるいはその祟りを恐れて慰撫するものだ、イヤイヤ定家老後の手遊びでさして気にせねばならないものではない、など、様々らしい。

こうなると成立時期が特定できることの方が不思議なほどだが、それは

定家日誌「明月記」の以下の記事によるという。文暦2年(1235年)5月27日の条、「予本より文字を書く事知らざるに、嵯峨中院の障子色紙形、故(ことさら)に予書くべきの由、かの入道(宇都宮頼綱、法名蓮生)懇切なり。極めて見苦しき事と雖も、なまじいに染筆し之を送る。古来の人の歌各一首、天智天皇より以来家隆・雅経に及ぶ。」

訳ーー自分は筆で書を描くことは不得意だが、嵯峨中院の襖絵用の色紙を是非書いて欲しいと、例の入道(嫡子為家は、幕府要人で在京の宇都宮頼綱蓮生の娘を妻にしていた、為家の岳父にあたる出家坊主)が熱心だ。極めてみっともないことだが、あえて筆を取り色紙を書いて送った。古来からの人の歌を一人一首ずつ、天智天皇から最近の家隆と雅経に及ぶ。

心ーー襖用の色紙、枚数は不明、嫁の親で幕府の有力者(といっても北条の猜疑にあい坊主蓮生になって辛うじて宇都宮一門を救った)の頼みだから断れない、天智から家隆雅経というから、現行百人一首の天智から後鳥羽院順徳院までとは、明らかに違う。

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991255  の235コマ

これが現伝百人一首そのままとは読めないが、学説的には過去の展開もあり他の証拠も合わさって(以下)、このころ「百人一首」成立とするらしい。


他方で戦後1951年宮内庁書陵部に「百人秀歌ーー嵯峨山荘色紙形 京極黄門撰」が発見され、伝本の経緯などから後人偽作はありそうにないなどとして、上記とともに藤原定家(京極は定家晩年の邸宅が一条京極にあり、黄門は中納言の唐名で、要するに定家撰)選定の有力証拠らしい。ただし、現行百人一首とは97首は同じだが残り4首は違って全101首、最後の二人はこれまた後鳥羽順徳院でなく定家と西園寺公経、など顕著な違いもあるという。

こうなると、いわゆる百人一首には現在3種の伝承がある・・。即ち
1)普通に知られる「小倉百人一首」ーー百首、天智から後鳥羽院順徳院まで。小倉山荘色紙?、かるた形態あるいは本で、宗祇以来一般に流布発展したもの。

2)「百人秀歌」ーー百一首、天智から定家と公経まで。嵯峨山荘色紙形。戦後の新発見で古いものがそのまま伝わっている可能性大。

3)「明月記」記述ーー何首か不明、天智から家隆と雅経まで。蓮生の嵯峨中院障子色紙形。定家本人の証言。

専門家は上記3者の前後や草稿終稿関係を問題にするらしいが、そうではなく、定家自身が大方は固めて多少手を加えてはその「目的」や「お客さんや読者」に応じて使い分けることを予定していたとの想定も成り立ちましょう。これが素直だしこの仮説で以下、論を展開してみます。


(つづく)

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