紀の語る外交:三国との関係

欽明末期(570年)から敏達初期(572,3,4年)、高(句)麗使者を相楽館(山背に新設した迎賓館。前記事、漂着高麗人を山背に住まわせたとあるから高句麗ムラがあったのだろう)に滞在させ関係強化を意図したが、紀によればコミュニケーションの問題や既存外交勢力の妨害もあり、いったん紀の記事からは消える。が、聖徳太子の時代(595年推古3年)になっていきなり「高麗僧慧慈渡来、聖徳太子の師となる」というから水面下で相当なやり取りがあったはず。隋の中華統一により高句麗の危機感が高まったこと、聖徳太子からすれば生の中華情報の獲得と百済・新羅勢力への牽制を意図したものと読んでいい。

蘇我馬子が物部を滅したのが587年(用明2年)だが、外交はかつてと同様、任那復興を口では言い、新羅には調の引き上げを求め(新羅は不満たらたらで常に下級役人が往来)、百済には新羅攻めの口実を与え(王族や身分の高い使いが往来)、倭は両方から調や賄賂をせしめることに終始する。が口先だけで任那復興新羅征伐をいっても人々は信じなくなる、時に実践してみせねばならない。隋の高句麗遠征のはじまった598年以降半島南部も流動化、600年(推古8年)倭も1万余の新羅征伐軍を派遣するが「強いて撃つのはよくない」と早々引揚げ、602,603年(推古10,11年)2万5千の大軍を整え聖徳太子の弟皇子たちをトップに据えるが筑紫にとどまり渡海は取り止め。いわば脅して新羅(や百済高句麗やなお親新羅の筑紫勢力)からそれなりの調や見返りを得れば折り合っている。


この時期の大事な出来事は隋への遣使だ。倭としては雄略以来130年ぶりの大陸遣使である。600年第一回遣隋使(紀は無視、隋書のみ)が得た知見は大きく、聖徳太子は斑鳩にあって飛鳥の馬子をリードする形で12階位や17条憲法、三経義疏など画期の業績を示す。607年には小野妹子を改めて大唐(隋)に派し独立の気概を示し、帰国には裴世清を伴い日本の豊かさ大国ぶりを実見させた。隋書には「新羅百済皆、倭を大国とし敬仰している」とあり(次記事)、隋と高句麗は長期戦争中、隋も高句麗も敵につかれては面倒と倭を丁重に扱う。

高句麗は大陸への楯、百済は外交で、新羅は軍事力で、倭は南海の大国として、それぞれ自主独立の道を志向する。朝鮮三国は易易として中華帝国朝貢冊封体制に入った印象があるかもしれないが、隋統一間もないこの頃は、各国とも戦いつつ様子見、仏教文化交流も盛んだがそれは情報戦諜報戦でもあった。とくに気候風俗も良い南海の大国倭の朝廷や迎賓館(筑紫難波山背)には各国外交官や僧が集い結構にぎやかだったと想像する。日本がこのあと隋唐に対し割と強く独立不羈を通せたのもこの頃の半島各国外交団の(とくに気分精神的)支援の記憶もあったに違いない。


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