濊の出雲入りは100年頃?

出雲の四隅突出墳丘墓は西暦150年ころまで遡りうるというのが最近の古墳学らしい、前方後円墳の初期代表の纏向箸墓が卑弥呼死の250年頃に相当し、出雲の四隅突出墳丘墓はさらに100年ほど古い。もっとも古いものは三次(広島ミヨシ)の山間にあるが、100年ほどの間に出雲伯耆から越前まで日本海沿いに90基ほどある、という。

これを持ち込んだのは、東濊勢力、で崇神の数代先祖というのがrac想像。石積方墳は高句麗・濊の系統、外的緊張が高まり倭的部族ボス談合社会から集権的軍事政治体制(身分差=墓も差別化)が必要な時代を迎えるが、これを先駆的に倭にもたらしたのは、九州勢でも近畿勢でもなく、漢や高句麗と長く戦った来た東濊系の人びとで入り口は西暦100年頃の出雲だったという仮説。

半島南部は沿岸部を中心に倭系+稲作・斉呉越から移動してきた人が多く、九州出雲までエーゲ海的文明社会を古くから築いていた。半島南部の奥地山間部は、後漢書・魏志・三国史がいうように箕子朝鮮衛氏朝鮮(遼東半島寄り)さらに歴代大陸から難民移民が入り込んだにしても気候は厳しく生産力も大きくはなく法(律風)俗も劣っていた。むしろ衛氏朝鮮や漢楽浪郡に近い高句麗や東濊の人々のほうが、社会政治軍事については先行的だった。既述通り東濊は少なくとも紀元前100年から後280年までは日本海沿いの半島中北部に盤踞しており、この間、漢楽浪郡・高句麗・公孫氏等との軋轢あり、まあ勝ったり負けたり・・

紀元100年前後に限ると、後の広開土王時に似て、高句麗初期領土拡大期で、以下、大部分を高句麗太祖王に充てる。

後44年後漢の光武帝、派兵して楽浪郡を再建、高句麗は後漢とはしばらく宥和し東方経営を強化

後56年高句麗(太祖王) 東沃沮を併呑,またその南の東濊一部を領有。この結果高句麗は東は日本海、南は薩水(清川江)に及ぶ。この後しばらく、周辺国から(後漢に成り代わって)朝貢を受ける立場だった。

後118年には,後漢の衰えを見て、高句麗は濊貊と同盟して玄菟郡華麗城(咸鏡南道?)を攻める。

後121年,春,漢幽州刺史馮煥、玄菟太守姚光、遼東太守蔡風ら來侵,穢貊渠帥(首長)を殺し兵馬財物を略奪。高句麗王は弟遂成らを派遣、漢軍と激戦、ついに玄菟と遼東の二郡を攻め城郭を焼き殺獲二千余人。同年夏,太祖王、鮮卑と共に八千人で遼東を攻め太守蔡諷以下百余人戦死。同年冬,太祖王、馬韓濊貊と共に万余で玄菟郡を攻める,但し扶余が漢軍を援助,高句麗勝利得られず。146年,太祖王楽浪郡を略奪、帯方県令を殺し楽浪太守妻子を拉致。

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紀元100年前後は、高句麗太祖王の暴力専横が激しく、北方中国的軍事政治にたけた東濊の一派がこの圧迫を逃れ、(北九州などとくらべれば油断あった)出雲を海から一挙に攻め取ったとして不思議はない。

なお出雲の荒神谷(銅剣358本)加茂岩倉(銅鐸39個)や鳥取の青谷上寺遺跡(殺傷痕人骨110点)など他に例のない尋常でない弥生遺跡の存在も、上記仮説を支持すると思う。

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