仲哀紀1)

記紀は伝奇摩訶不思議韜晦の塊だが、中でも仲哀紀は際立っている。前記事参照、「崇神」から成務にいたる国内集権化の時代から、「倭の五王」朝鮮進出と巨大前方後円墳の時代への、ジョイント役を担うのが仲哀紀だ。記は神功皇后を仲哀紀に含めるが、紀は神功皇后紀を別に立てる。以下は紀の仲哀紀要約。


1)仲哀はヤマトタケルの第二子、母は垂仁の皇女だから、甥叔母皇族同士の純血だ。仲哀も10尺(一丈=2.5m)の大男。同母弟がいたが、越から献上された(父の象徴の)白鳥も焼けば黒鳥と不謹慎を言い横取りしたことを理由に誅殺された。

2)皇后は最初から息長帯姫(オキナガタラシヒメ=神功皇后)というが血筋は近江国神系らしく皇族ではない。神功の前に従兄妹皇族を娶り麛坂(カゴサカ)忍熊(オシクマ)両皇子がいたと紀も明記するから、おそらく彼女が皇后だったが、後に両皇子と神功応神母子の後継者争いし応神が制するわけで皇后と書き換えられただけ。神功皇后は皇族でもなく皇位の資格もなかったのに、紀は長い神功皇后紀を別建てし破格の扱いをする。

3)仲哀2年3月数百人規模軽行で南国紀国巡狩中、熊襲謀叛の知らせが入ったので、そのまま穴門(山口県)に直行、角鹿(敦賀)の神功皇后にも穴戸で合流しようと連絡。仲哀は6月に豊浦津(下関)にはいり、神功も7月に豊浦津到着。9月に宮を立て豊浦宮という。

4)そして実に6年滞在し、仲哀8年正月に筑紫に御幸。このとき岡(遠賀河口域)県主の先祖熊鰐(ワニ)が船に乗り榊を立て上枝に白銅(マスミ)鏡、中枝に十握(トツカ)剣、下枝に八尺瓊(ヤサカニ)をかけ周芳沙麼之浦(防府市、景行が神夏磯媛を迎えた基地だ)に迎えて、魚塩地(稲の屯倉ににて魚塩地という名の直轄地でしょう)=自穴門至向津野大濟爲東門、以名籠屋大濟爲西門、限沒利嶋・阿閉嶋爲御筥、割柴嶋爲御甂御甂、此云彌那陪、以逆見海爲鹽地。*(良く分からないが関門海峡と周りの小島)を献上した。

5)岡県祖熊鰐が先導して仲哀一行を岡県(遠賀河口の本拠地)に誘導するが、途中で船が前に進まない。仲哀は「汝熊鰐、明心ありて参上したというが、どうして船は進まないのか?」、熊鰐「御船が進まないのは臣奴の罪ではない、この海峡には男女の神がいて、そのお心だろう」と。天皇自ら祈り天皇水軍の長にも祭らせたところ船は前進した。神功皇后は別途洞海湾から向かったがここも潮が引いて動けず、やはり熊鰐がお迎えに上がった。皇后は激怒したが熊鰐が魚沼鳥池を造成して魚鳥を集めて見せたので皇后は機嫌を直した。こうして天皇皇后は岡津に入った。

6)これを聞いて、筑紫伊覩(イト)縣主祖五十迹手(イトテ)、やはり榊をたてた船で上枝に八尺瓊、中枝に白銅鏡、下枝に十握劒をかけ、穴門引嶋(ここにも仲哀の基地があったのだろう)にやってきて、服従を誓い、天皇には八尺瓊のように曲妙に御宇され、白銅にように明らかに山川海原を治め、この十握劒で天下を平定されますように」と。

7)こうして筑紫に入り、儺縣(ナノアガタ)に到り橿日宮(カシイノミヤ)=現存、福岡県香椎宮に滞在した。

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記は上記3)-7)の話を一切飛ばすからわけがわからなくなるが、紀は比較すれば誠実で、

この時6年かけて、伝統の博多湾中核の伊都国、奴国、遠賀川河口の岡国を初めて屈服させた(あるいは同盟した、後述)のである。仲哀8年春正月には福岡香椎の宮を確保したともいう。成務天皇までは北九州を除く日本国の統一と国力づくりに努めた、そして大古墳群とそれなりの軍事大国になったのだろう。仲哀と神功、かれらを取り巻く紀や越や近江等の水軍を擁し、仲哀は紀國から、神功は敦賀から、熊襲を撃つ名目で出陣したが、実は北九州伝統勢力への攻勢だった、とみる。

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*穴門(=ここは関門海峡そのもの)から宇佐向野の港までを東の境、北九州市戸畑北部の港を西の境とし、あとは周辺の島をさす。豊浦宮(下関長府宮ノ内町)までは事前確保し前線基地だったわけだが、この時、関門海峡とその周辺を近畿大和は確保した。島はどこか分からぬが、船の往来を監視できる重要な場所だったのだろう。

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