蓮生宛百首(時代不同歌合と襖用色紙)

2413.蓮生宛百首(時代不同歌合と八代集秀逸)
明月記に書き遺した「蓮生宛百首」こそ、現伝「小倉百人一首」や戦後発見の「嵯峨山荘百人秀歌」とは別もので、定家肝入りの自信作。故に、まだどなたも実現できていない「その歌人歌順序の復元と定家の意図の再発見」に挑戦中です。

前記事まで、冒頭末尾の5首ずつ、十人十首の復元(冒頭5首は百人一首に同じだが末尾5首は全く異なる)とその定家の意図は、ほぼ間違いないと思います。

では定家は、どのような発想きっかけ思考展開で、こういう作品(蓮生宛百首他)になったのか?合わせ考えておきます。

まず指摘できるのは、こういう折り返し型、それまでにない歌合せ方、が実現されたのは、バラバラの色紙形だったこと、加えて、何より後鳥羽院の「時代不同歌合」の影響、と思います。

「時代不同歌合」(以下、群書類従第215より)。後鳥羽院が隠岐で(暇だしかといって流刑人であり後鳥羽歌壇歌人たちを集めることもできなくなったので)仕上げた、机上の歌合の記録。万葉来の時代不同の名歌人達(こちらは名歌人秀歌と言い切っていい)百人から3首ずつ採って、左右2人ずつ、歌人の合せ(番い、ペアリング)は変えずに50組150番*、から成ります。
番っているだけで、判(良し悪しの評価判断と理由)や点数付けもしていません。勝負事大好きの後鳥羽院にしては意外ですが秀歌揃いで評はともかく勝ち負け判断はできないとでも思ったものか?そして後鳥羽院は(定家と違って)隠しだてはしませんから、その並べ方につき情報はオープンにしていて、
「古今・後撰・拾遺等の作者を以って左(上席)とし、後拾遺・金葉・詞花・千載・新古今等の作者を以って右(まあ挑戦者)となす。*」

と明記します。古今後撰拾遺後拾遺金葉詞花千載新古今とは平安時代の勅撰八代集です。万葉集は外しているということですが、古今集以下でも万葉歌人とその歌も採用されていますから、万葉歌人も対象(ですが歌はやはり平安貴族趣味が多い)です。そして、時代の古いものが上席、新しいものが挑戦者という考え方です。


*因みに「時代不同歌合」の百人三百歌による50組150番の左右は、頭から(官位等略):
左:人麿・赤人・家持・篁・行平・遍昭・小野小町・業平・敏之・伊勢・元良親王(11組まで)・・
右:経信・忠通・清輔・国信・俊成・慈円・家隆・西行・丹後・良経・定家(11組まで)・・
最後50組目から戻る形で
左:和泉式部・赤染・馬内侍・具平親王(47組目まで)・・
右:宮内卿・大輔・師時・愚老=後鳥羽院(47組まで)・・

「時代不同歌合」は「百人一首」に時期的にわずかに先行、また後鳥羽院と定家はお互いそういうことをしていると知っていたろう、ともいいます。広いようで狭い当時の歌人業界です、流刑人後鳥羽と京歌壇大物定家ですから直接のやり取りは憚ってもお互い相当情報をもっていた**ようで、上記後鳥羽「時代不同歌合」で、定家は自分が元良親王とペアリングされて不満だ、という趣旨を書いています。

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何を言いたいか?。
要するに定家の百人一首は、後鳥羽の時代不同を踏まえて、名歌人百人の3首ずつの秀歌集ならそれ以上のものはできないから、もっと定家の考え方を表面に出して特色ある物を作った。これが定家の「3種の百人一首」です。
1)「動機」ですが、端的に言って歌の世界で、後鳥羽と定家はずっと張り合ってきています。「時代不同歌合」を面白いアイデア企画と定家もすぐ感じ、定家は(対抗意識もあったと思いますが)、百人3首ずつでなく百人一首ずつ、同材料で味わいの違う、3つのバージョンという工夫をした。

2)時代不同歌合の冒頭の人麿赤人家持は歌も百人一首と同じです。そこで定家は、味わいを変えるため、歌人としてなら取り上げるまでもない「天智と持統」をあえてトップに据え、「単純な歌集を超え」て、広く天皇藤原社会のスタートから始めた。このことが結果的に「3つのバージョンを生み出せる原動力の一つ」ともなった。

3)嵯峨中院(小規模山荘でなく結構な規模の邸宅用、百枚ですから)障子(襖)用色紙という宇都宮蓮生の依頼がもう一工夫できるきっかけになった。つまり、襖一枚ずつに2,4首、6首、まとまりのある歌の塊を貼る、色紙ですから色絵も書かれていたかもしれない。百人一首かるたの絵札は、いまでも歌人肖像画と草書うたですが、案外オリジナルの記録伝承を引いているのかもしれません。

4)万葉古今後撰拾遺の「古い歌を順に並べこれを軸に、新古今集千載等の新しい歌の中から、ひとつひとつ合わせていった。だから、とくに右(挑戦者、後半、新しい時代分)の順は不同、年代順などはデタラメになってしまう。ペアリング・グループです、とはっきり言って襖絵色紙2枚、4枚、と張り付けていくのには何の違和感もなかったろう・・。

が記録用文書として百首並べて文書に残すと、前半ももちろんそうですがとくに後半部分順序はおそろしくデタラメになってしまう(時代不同も百人一首もこの問題は同じです)。

天皇藤原時代終焉や後鳥羽還御要請という政治的メッセージは、相手を見て慎重に切り出さねばならない厄介なテーマです。京公家教養人政治家としていろいろ忖度せねばならぬ立場の定家は困った(同業界師弟や同時代の偉い人もいるわけで)。とくに「百人一首」は後鳥羽順徳の歌まで採用しているわけで、やはり韜晦するのがいい。かといってペアリングやグルーピングは大変良くできていて自分でもお気に入りだったからでしょう、これをすべて捨てるのも惜しかった。・・でオクラ入り前提に「百人一首」と歌壇子弟へのメッセージのサガセンゾ「百人秀歌」については(記録に残す文書用としては)ほぼ時代順と割り切ってならべ、敢えてその意図を分かりにくいものとした。それでも「蓮生邸襖絵」を合わせ見てくれれば分かる人にはわかると期待してもいたはずですが、オクラもサガセンゾも時代順に並べ変えた途端、その合せ(ペアリング、グルーピング)は見えなくなった。理の当然だし、それでいいと定家も思った。

不幸にも、肝いり色紙「蓮生宛百首」は早くにすたれ、その後は宗祇による(本来世に出てはいけない)オクラ「百人一首」が喧伝、広く世にながれ、百人一首はウソ歌人やヘタ歌も多い変な歌集だがその順序はどうやら時代順との理解が通用し常識化した・・そして昭和になって「百人秀歌」が発見され、何が何だか、ますます良く分からなくなった。

(・・・以上、少し先取りして書いてしまったのでわかりにくいかも、先に蓮生宛百首復元結果、この後数本、を読んでください。多謝。)

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**なお記録まで、「八代集秀逸」
そしてまさに、後鳥羽院の「時代不同歌合」のための、情報集めか後鳥羽の確認のためではないか、と見られる資料が現伝します。
藤原定家撰、上記古今集から新古今集までの八代集より各十首ずつ計80数首(補欠あるため)の秀逸歌集。明月記1234年9月には後鳥羽院第二皇子道助法親王の仰せにより撰進とあるが父後鳥羽院の意向であると定家も聞き知っていたようで、事情ありとか名誉なこととか、よく分からない定家独特の記述がある。

また後鳥羽院(と家隆・定家の三者共)撰の「別本八代集秀逸」もあるらしく(未見)、ダブりを除いた計157首。このうち「時代不同歌合」採用一致分は◯首だからまさにネタ本あるいは再確認本、と見ていい。

そして後鳥羽が時代不同歌合のために自薦しその初版に採り上げたのは、実は定家が八代集秀逸に採り上げた3首(新古今集から一人一首を破って後鳥羽から3首採っている)そのものだった、ことは書いて置いていい。後鳥羽と定家は、よく分からない、そういう関係なのです。

なお、定家撰「八代集秀逸」は、時期的にも百人一首の材料になったことも確実で、歌こそ80数首中38首だが、歌人の好みは百人一首とほぼ完全にダブり73人中69人が百人一首に登場する。この点から見ても、いわゆる「百人一首は定家本人にとっても秀歌集ではなく、好みの歌人集、であった。」といえそうです。

(つづく)

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