古墳から見る倭国成立

ここ10年ほどフォローしなかったが、この間、考古学では土器同様に古墳の地域特性系統編年について整理が進んだらしく、倭国成立についても、大胆で挑戦的な見方が広がっているようだ。その代表的なものとして直近「東アジアと倭の眼でみた古墳時代」(国立歴史民俗博物館研究叢書7、2020年3月、朝倉書店)、岸本直文大阪市立大教授(1964年生)の論文「倭王権と倭国史をめぐる論点」の要約から。(要約文責、rac)

邪馬台(ヤマト)国は近畿と断言、卑弥呼以前、2世紀前半には倭国は形成

1世紀に入り、近畿地方では、大和川流域の中河内・南大和が主導し、拠点集落を解体しつつ社会統合が進められ、土器は畿内第Ⅴ様式に斉一化する。これが魏志倭人伝にみえるヤマト(邪馬台)国。北陸から東海地方まで(吉備出雲紀伊を含むが当初北九州は除外)連動、理由は朝鮮半島南部の鉄素材確保のためで、北九州と渡り合える主体を作り出すための統合でありネットワーク強化だった。57年ナ国の朝貢はヤマト国以前の北九州かぎりのことだが、50年後の107年倭国王師升はすでに地方諸王権が連帯し代表して後漢に朝貢した可能性もある。

纏向が倭国の求心核

奈良県桜井市纏向遺跡は庄内0式期に建設が始まるが、土器付着炭化物の炭素14年代(BP値)から2世紀中ごろに遡りうる。ヤマト国本拠地でありやがて倭国王墓である纏向型前方後円墳が築造される。纏向からは他地域の土器が多く出土し、2世紀後半にはヤマト国の求心核になったことは間違いない。

倭国内乱と卑弥呼共立による倭国成立

が2世紀末葉に倭国乱、ヤマト国優位の進行に対する反動。北九州から瀬戸内畿内にかけての覇権争い。3世紀前半に卑弥呼共立で収まり、横並びの諸国連帯から倭国王に結集する連合体としての倭国に変身。纏向の継続から見て、纏向ヤマトを求心核とすることに変化はなく、卑弥呼はヤマト国の人物。

箸墓古墳の埋葬時期は3世紀中頃と特定、初代倭国王で247年頃に没した卑弥呼の墓、と考える。

前方後円墳の共有は卑弥呼以前から

前方後円墳は、3世紀前半には瀬戸内一帯から北九州一部関東まで、点々と表れる。前方後円墳は倭国への参画を示す共有物。前方後円墳や前方後方墳が各地で登場するが、相似墳を複製する仕組みや墳丘規模規定が整備され、「前方後円墳共有システム」というべき統合と身分秩序を表現する制度として整えられる。

倭国王は2人?祭政分権王制

当時の倭の首長権は、キョウダイによる分掌的なありかたが普通で、宗教的呪術的首長と世俗的軍事的首長が並立。247年頃の卑弥呼没後、男王への転換がはかられるが戦争になり13歳の台与を第2代倭国王(女王)とし収束。オオヤマト古墳群には倭国王級の巨大前方後円墳が6基あるが、墳形・段築構造から箸墓にはじまる主系列とそうでない副系列があり、箸墓=卑弥呼、西殿塚=台与、の主系列。桜井茶臼山・メスリ山が副系列で執政王墓、規模は一回り小さく柄鏡型前方後円墳。

急速な前方後円墳の全国化

前方後円墳は3世紀前半に始まり、3世紀中ごろから倭国王(卑弥呼、箸墓)を規範とする相似墳の築造がはじまる。1990年代以降東北や南九州の前方後円墳も早い時期に遡りうることが明らかに。古墳の設計は中国尺でなく6尺を一歩(約1.5m)とする歩数で規格化、墳丘規模は5歩刻みでランキング。また各地の個性的な土器も、庄内式、布留0、Ⅰ、Ⅱと急速に畿内様式に転換した。そこには(各地方という以上に)畿内の人々の活動があり影響力があった、ということ。こうした議論は、1993年都出比呂志が展開したが、その後の考古学はこれが正しくしかも3世紀中にはほぼ全国化した急速なものだったことを示す。

佐紀遷都

佐紀遺跡は3世紀後半の布留1式以来、奈良盆地北方の王権拠点だったが、纏向は布留1のあと希薄化し、布留2式期からは、佐紀が王権本拠となる。オオヤマトの箸墓ー西殿塚(=卑弥呼ー台与)古墳に後続する主系列墳が行燈山古墳。4世紀前葉「記」崩年干支から318年没とみる崇神(ミマキイリヒコ)墓の可能性が高い。纏向から佐紀への移動は、淀川から近江に抜けるルートが列島東西をつなぐ幹線として重要になり、これに接する佐紀が選ばれた。朝鮮半島では3世紀末には倭が鉄素材を依存する加耶に金官国が成立、その交易は過去北部九州が担っていたが、4世紀布留2式期には倭王権との直接交易に転換、4世紀前半に畿内の倭人が半島に赴くようになり、これに伴い沖ノ島祭司も始まる。

半島派兵のはじまり

佐紀時代には、それまで前方後円墳のなかった、とくに水陸の交通路を押さえる位置に新興の大型前方後円墳が登場、倭王権と地域首長の関係も変わった。4世紀中ごろから第3四半世紀頃(佐紀前半)には明石海峡に五色塚古墳、和泉に前方後円墳、丹後半島に網野銚子山古墳・神明山古墳が登場、地方首長が造ったというより王権がリードしてランドマーク的に建設、人々に見せることを意識しており、4世紀中ごろの倭軍の渡海開始に一致。金官国の鉄素材の確保、朝鮮南部安定のため倭国の軍事協力という構図。

佐紀時代には、佐紀以外、もともとのオオヤマト、さらにはその他畿内、周縁部にも佐紀の執政王墓と変わらぬ規模(200m前後)の前方後円墳が出現。王権周辺の大首長たちには、佐紀遷都と言えるほど集中的なものではなかった可能性も大。

応神(ホムダワケ)による河内政権

応神朝は通説的には別王朝とみるが、応神は佐紀の王族で4世紀末の内乱を勝利しただけ(塚口義信1993)説もあり、考古学から見た津堂城古墳(佐紀と連続性を伺わせる古市古墳群最古の王墓)の被葬者像とも合致する。「紀」の応神在位は270-310年だが、百済関連記事から実際の応神元年は390年、「記」崩年干支から没年は394年とみられ、在位は5年。応神の活躍期は佐紀時代の4世紀後半、大阪湾岸の派兵に携わる中で権力基盤を形成、晩年に王権を奪取する政変を引き起こした、とみる。

加耶地域の土器や墳墓の編年、日韓の相似比較、まだ少ないが年輪年代データなどから、津堂城古墳が394年没の応神墓と推定。また「記」真福寺本の15代没年干支など崩年干支は信頼できるとの前提で結論としていうと、

神聖王は、仁徳432年まで、允恭在位432-454年、木梨454-474年、清寧474-484年、飯豊を挟み仁賢が506年まで。執政王は、応神390-394年、履中394-427年、反正427-437年、市辺437-456年、雄略456-489年。またそれぞれの墳墓もほぼ同定(略)。倭の5王は、讃ー珍(反正)、斉(允恭)-興ー武(雄略)に同定。

允恭は葛城玉田宿祢を、雄略は子の葛城円大臣を倒し、前王統と結びつく葛城を削ぎ、また雄略の吉備氏弾圧、雄略による履中の子の市辺惨殺、により、大首長の地域支配が解体し中小首長層の直接起用が允恭ー雄略で進展する。

継体擁立による2王体制解消と大兄制

雄略死後混乱、仁賢は「日継」の系譜で神聖王(488-498年、武烈は非実在)で、継体が執政王として擁立され、仁賢の娘を娶り河内の王統を継承した。継体元年を「紀」が507年とするのは、神聖王仁賢が506年まで在位したから。継体擁立とともに、5世紀後葉に持ち込まれた百済系の片袖式横穴式石室から畿内型石室が成立し、以後倭国の墓制に広く採用される。武寧王の単龍環頭大刀から展開する単龍(単鳳)環頭大刀が、倭系の捩り単頭大刀とともに隆盛するなど百済系の副葬品が全面的に採用されるようになる。継体と百済武寧王との密接な関係が伺える。朝鮮半島南西部の栄山江流域の前方後円墳は、百済が同地に進出しようとする継体在位中6世紀前葉に限られる、磐井がかかわっているとみる。

継体墓は今城塚古墳(高槻市、200m)、もはや古市百舌鳥古墳群のような超大型前方後円墳はない。継体は祭政分権王制を解消し倭国王位を一本化。他方で、継体期に初出の大兄(おおえ)は注目すべきで、勾(まがり、安閑)以降も続き、訳語田(おさだ、敏達)→橘豊日(用明)→・・→厩戸→山背→古人→中(天智)と継承され、執政王的役割の地位として大兄が設けられたとみられる。

継体後の混乱と欽明朝の画期

継体の没前後も混乱があるが、継体は527年没、継体と尾張目子媛(めこのひめ)の子=安閑が即位するが、532年には継体と仁賢娘手白香の子=欽明を蘇我稲目が擁立。継体安閑時代の地方首長は右片袖の横穴式石室を持つ前方後円墳を築造するが多くは一代限りで断絶。6世紀後半には徐々に前方後円墳はなくなり、首長墳は円墳となるとともに横穴式石室を持つ群衆墳が爆発的に築かれる。蘇我系双竜双鳳大刀や物部系頭椎大刀が副葬が特徴となる。首長が官人化し部民制国造制菅家(みやけ)制が進むのと符合する。

前方後円墳の廃止は587年

欽明墓は五条野丸山古墳(330m)だが、敏達のは未完墓の平田梅山古墳(140m)。6世紀後半には倭国王墓も縮小。用明が587年に没し、その後継として物部守屋の推す大兄彦人と蘇我馬子の推す用明の蘇我腹の物部蘇我戦争がはじまる。この時期の用明・(崇峻?)の墓はすでに大型方墳であり、587年の蘇我勝利を転機として前方後円墳の時代は終わる。地方の首長墓の前方後円墳は600年前後まで続くが、前方後円墳は587年に一律廃止され、こののちは円墳もあるが方墳へと転ずる。

なお6世紀の埋葬装飾大刀の分布域は、瀬戸内、山陰北陸東海、東国と大きく三つに分かれる。瀬戸内は大伴、山陰北陸東海は蘇我、東国は物部、で王権を囲む三つ巴の権力構造にあったとみる。

6世紀後半には、蘇我が主導権を握り、地域開発を徹底。古墳時代の平野部集落はやや高台に移動、それまでにない規模の溜池築造や長距離用水掘削がすすみ生産力拡大、幹線道路にはランドマーク的寺院が建設。古墳築造の制限は、こうした耕地拡大・王権拠点の整備・交通網整備といった現実的課題に労働力を振り向けるものでもあった。

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以上、岸本論文。末尾に「筆者の偏った見解だが、現時点での理解を、考古学・文献史学双方に示した、なにがしかの刺激となり、議論していただくものとなれば幸い」と。従来、考古学界は総じてあまりに慎重。しかし上記分野は素人一般人も広く関心あるところ。大胆・挑戦的見解は大いに歓迎。学会のみならず、こんな時代だ、多くの人々がわいわいがやがや参加し楽しむことも結構なことと思う。感謝。


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