紀元前後から275年まで

809-822.紀元前後から300年ころまで列島で何が起きたのか? 

日韓の考古学が進展し他方軽視され過ぎた朝鮮「三国史記」や日本「記紀」の読込みも進み、日朝の古代史もだいぶ姿形が見えてきた。「謎の4世紀」は最近の古墳論(とくに前方後円墳国家システム論)でいうなら5大古墳群が出揃う時期、記紀なら崇神朝から神功応神あたりの時期、他の時代に増して大きく変化し語るべきことの多い時代と判明しつつある。

謎はさらにさかのぼり、依然答えのでていない邪馬台国はどこだったのか、卑弥呼や台与とはだれか、記紀があれだけ語る出雲では何が起きたのか、神武や崇神は実在か、神武東征はあったのか、などに向かいつつある。以下、最新の考古学実績文献解釈など踏まえ、こうした謎の解決に向け、紀元前後から300年頃まで列島で何が起きたのか?大きな流れ、素人ながら仮説として纏めておきます。

--------------------------------------------------------------------------------

漢帝国の弱体化と民族大移動が原因

(1)紀元前後、前漢の動揺・気候寒冷化により周辺の民族移動が高まり、朝鮮半島も混乱がはじまった。その影響は、半島南岸にも広がっていた倭人勢力にも及び、また鉄器時代に迎えたことでとくに弁辰(=後の伽耶)鉄源は混乱を先鋭化させた。

倭は南朝鮮から関東まで地方国家揺籃期

(2)紀元1世紀には、北九州伊都国(三雲南小路)奴国(須玖岡本)や吉野ヶ里には国王(首長)クラスの方墳が登場、交易やコメ・鏡・剣・土器の生産で繁栄し身分格差も大きくなっていたとみていい。東日本でも河内(加美)・尾張(朝日)・東海(折本西原)にも方墳がすでにでているから、北九州だけがダントツに社会分化が進んでいたとは思わない方がいい。

出雲に新羅系北方人が侵攻

(3)問題は出雲だ。近年発掘の荒神谷(銅剣鉾と銅鐸が一所に整然と、剣は358本とそれまで日本で発見された総数を上回る)、加茂岩倉(入れ子状で銅鐸39個が雑然と)、鳥取の青谷上寺地(人骨110点に殺傷痕)遺跡。いずれも放棄されたのは紀元2世紀とみていいらしく、その尋常でない様子から、倭国大乱の一環(端緒かも?)。

だが倭というより、後の新羅に入り込んだ北方系の人々が出雲を侵攻したと読む。スサノオ伝説、三国史新羅本紀にある新羅王子伝承、崇神垂仁紀の異邦人ぶりや出雲イジメと出雲を畏怖する逸話、丹後や若狭の応神系伝説、など総合勘案すると、倭国大乱時守りの堅かった北九州を避け出雲に侵攻した新羅系武人一派(崇神系と呼ぶ、製鉄技術持ち出雲砂鉄から鉄づくりするため?)があったと読む。この結果、縄文以来の古い出雲のボスたちは近畿はじめ全国に逃亡拡散。出雲は九州中心の銅矛剣圏とも近畿中心の銅鐸圏ともつきあうユニークな存在だったがかえって弱みとなり、崇神系を呼び込んだとみる。崇神系は丹後若狭越にも入り、四隅突出方墳(西谷3号、西桂見、大風呂南、小羽山30号)を2世紀中に残す。

倭国大乱

(4)倭国大乱は卑弥呼時代前後続いていたとみてよく、後の新羅・加羅・北九州を中心にした交易や鉄源をめぐる争い。魏志倭人伝がいうように、邪馬台国(北九州にあったとracは想像する)が魏に応援軍を頼んで小康を得たのであって、倭の世界からすると中国を呼び込むなどあってはならないこと。これによって(くわえて出雲への異邦人崇神系侵攻が少し前にあり)吉備・紀伊・近畿・尾張・東海・北陸のその他倭人勢力は危機感を募らせ一致団結を一挙に強める。高地性集落はこの時期の強い警戒感の証である。

神武東征

(5)卑弥呼や台与を共立し魏(あるいは晋、中国北朝)のお墨付きを得て南朝鮮北九州の倭人勢力は安定する。中国交易や伽耶鉄源を押さえこれで一杯一杯でわざわざ東征する意欲も能力もなかった。東征したのは邪馬台国の南、南九州にあった狗奴(まあ球磨)国一派。高千穂・久米・日向・海幸彦山幸彦伝説、何より神武東征伝承はその東征を伝えるもの。東方に豊かな国があるとは卑弥呼も神武もしる当時九州倭人の常識だったに違いなく、邪馬台国も球磨神武の東征は矛先をかわせ歓迎だったに違いない。この東征の開始は、邪馬台国が落ち着いた250年頃としておかしくない。

崇神東征

(6)出雲から越まで抑えた崇神系のひとびとも神武東征をやがて聞いた。新羅から攻め入り四隅突出古墳を作り始めて2,3代の後のこととみる。より大きな市場や豊かな土地を求めて、出雲(吉備経由)だけでなく丹後や越からも近畿纏向を目指し侵攻しはじめたかも。時期はこれも250年頃でおかしくはない。

ボス談合で近畿纏向に集結

(7)北九州や山陰では鉄剣鏃など武器や殺傷人骨がでるが、それ以外ではこうしたものがいまだ出ない。いうことを聞かぬ首長やボスが個々排除されることはあっても、大戦争などはどこにもなく、基本は、吉備と纏向あたりでのボス談合で決着がついたのだと想像する。問題の本質は、漢帝国崩壊(220年)であり半島の流動化、そして鉄武器や馬によるかつてなかった大戦争が半島で始まっていたことをみんな知っていたろう。倭には古くからの物品交易(鍵唐子遺跡)や人々のネットワークがある。倭人同族意識だ。見るからに違い・言葉も通じないのは崇神系の一部に限られた。東国のボスたちが纏向(奈良盆地)を選んだと同様、崇神や神武の系統もこれに同意した。当時の奈良盆地は湿地帯で米作に向かず碌な資源もなく大首長などいなかったに違いない。地理的に倭の東西南北のほぼ中央、山に囲まれどこから攻められても時間は稼げる、他方、万一のときは尾張東海からも越近江からも瀬戸内河内からも太平洋側からも、救援に駆け付け得る立地だ。こうして北九州邪馬台国以外は新制ヤマトとして再編された。かかった時間は案外短く10年か20年、西暦275年頃にはボス談合がなったとみる。

神武と崇神はともにハツクニシラスで同一人説は昔から強いが、ここでは、別人、ただし同じころの人と見る。

前方後円墳体制、そして3種の神器

(8)吉備や尾張ほかで纏向代表者を回り持ちしすでに纏向型前方後円墳を葬られていた(180年頃から纏向スタートというから)代表者がいたろうが、権威という意味では、半島出身者や北九州(邪馬台国にかわる)代表者がいい(のちにいう高天原だ)ということになったのだろう。神武や崇神が共立され大王位につく(媛巫女も共立したとしたのかも)、墳墓については神武(方墳)崇神(四隅突出方墳)が譲り超大型箸墓流前方後円墳、そして(銅矛や銅鐸の)青銅器祭器に代わり(九州系)鏡・鉄剣・勾玉の3種の神器へと合意していくのだとみる。まあいうなれば、軍事力と政治支配(強い握りでの収奪体制)では崇神系に強みがあり、宗教面や副葬では神武系に権威があった、そして受け皿たる吉備・近畿以下にはそれを受け容れるだけの文化的下地は熟していたし、経済力(人口農耕資源)社会力(ネットワーク・地域連携)は十分あった。

ただし、九州邪馬台国は厳然と残り、数代前に崇神系に敗残し全国に拡散した古い出雲は独特の蟠りを残したままであって、これがのちの記紀独特の韜晦の主因ともなった。

一挙に平和裏に前方後円墳国家が立ち上がったように見えるのは、以上のような歴史背景から、それぞれの強みを持ち寄った、共立型話し合い型ボス支配型のスタートだったからと想像する。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?