家隆雅経で終る百人一首

2406.百人一首(家隆雅経で終る)

前記事の3)「明月記」定家自身の証言より、天智に始まり「家隆・雅経」に及ぶバージョンについて。


嵯峨中院の宇都宮頼綱蓮生邸宅障子用色紙のために、とあり、かつ、2)百人秀歌には嵯峨山荘用とあるのだから、この3)「明月記」記載版も百首前後であり、なかの「家隆・雅経」 の歌は、1)現伝「百人一首」2)「百人秀歌」に同じく以下の歌だったろうと推定するのは十分合理的だろう。


#98藤原家隆「風そよぐ楢の小川の夕暮は 御禊(みそぎ)ぞ夏の徴(しるし)なりける 」
訳ーーなら(楢 奈良)の小川には、秋のような風がそよぎ秋のような夕暮れだが、気付くと、川に入って禊している人々がいる、まだ6月晦日(みそか)で夏なんだなあ。

ここでの心ーー秋と思ったのに実は夏だった、見遣る先には人々の姿、があります。#2持統「春過ぎて夏来にけらし白妙の衣干すてふ天の香久山」とピタリ符丁しています。つまり、持統は春だと思っていたのに実は夏なんだなあ、人々の姿にそれを見る(洗濯物が干されて靡いている)、家隆の禊は衣をはだけていて濡れているのに対し持統での衣は干され乾いています。

なお、#は現行「百人一首」の番号です、定家公経が最後の「百人秀歌」では99番、最後から3つ目です。


#94藤原雅経「御吉野の山の秋風小夜更けて 古里寒く衣打つなり 」
訳ーー聖都吉野の山の秋風、夜は更けて、この旧都に住み続ける人々がひっそりと砧で衣を打つ音のみが響く。

ここでの心ーー#1天智「秋の田の刈穂の庵の苫を荒み 我が衣手は露に濡れつつ」と符丁していると読むことは何の無理もありません。同じ秋ですが、天智は豊穣の田、雅経は廃れた旧都(天智が造作し持統は頻繁に御幸します)、そして同じく人々の姿が想像されています、つまり天智は農民を、雅経は砧うつ人々、です。さらに、衣が共通し、恩寵(露)を垂れる衣と人々に打たれる衣、です。意図は明白でしょう。

そして雅経が一番最後ということは、奈良以前の天皇藤原体制の聖都吉野は、すたれ寒々としている。冒頭天智の歌と引き合って、天皇藤原体制の終焉、武家には負けました、と示唆している。

なお、雅経#94は現行百人一首での順番、百人秀歌では97番です。つまり、家隆と雅経の前後関係は、百人一首も百人秀歌も、雅経が先で家隆は後です。しかし蓮生に渡した版は家隆雅経の順と明月記で定家ははっきり書いている、定家の意図からすれば、家隆雅経の順で雅経が最後でなければならないのです。
ですから、
#1天智#2持統が頭にあって、最後から2つ目に家隆・最後は雅経の歌、というのは、十分ありうる編集です。というより蓮生版はこの順でなければならなかった。上記通り、季節も人々がいることも場所も衣(天皇藤原貴族の象徴でしょう)も、十分シンメトリック(対称的に美しい)です。その定家なりの主張も明白です。

家隆と雅経は、まさに定家と同時代の歌人です。後鳥羽歌壇で定家以上に後鳥羽に近く愛されていたようですし新古今集編纂では定家と共に選者です。歌の歴史を順に辿るという点でも、後鳥羽や定家の時代を代表してもおかしくはない。後鳥羽は罪人ですし定家自らを据えるのは礼法上まずい。
家隆雅経は自分の時代を代表し掉尾を飾ってくれていい、十分な歌人、との定家なりの評価の表明でもありましょう。
このバージョンが、宇都宮蓮生の嵯峨中院(山荘?)用だったというのも、なるほどと得心できます。蓮生は、繰り返しますが、嫡男為家の舅、鎌倉政権の有力者、一応の歌人で定家の弟子でもあった。「歌の歴史が一目でわかるようなものを揮毫して欲しい」と大家定家に頼んだ、それがこれだった。バージョンの頭とお尻だけ見ていうのも気が引けますが、これを眺めて読んだ
蓮生は、まさに「天智持統来の天皇藤原体制期約600年に及ぶ歌の歴史の概要」として味わったことでしょう。(定家も体制の崩壊と交代などまでは講釈しなかったでしょうが)取り分けこの冒頭末尾の4首にはいずれも(百人一首では例外的というべきですが)民人々が読み込まれていることは(非貴族たる武家たる)蓮生には心地よいことだったのではないでしょうか?

(つづく)

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