神功皇后紀2)

金銀財宝の国新羅が神助によりあっという間に下ってきたという記紀記述は近畿ヤマトにとって正直な印象だったとよむ。・・実際大変な幸運のお陰だった。

結論を先に言うと、近畿ヤマト仲哀神功は全国統一のため残る北九州連合を攻めるつもりでやってきたのだが、当時の北九州連合は長い付き合いの新羅と婚姻関係不成立あるいは新羅王統が反倭系(純粋金氏)に代わったため疎遠となり、他方で高句麗が南下を強め、百済や新羅の北辺まで迫る事態となっていた。北九州連合はそれなりの規模の軍隊を朝鮮南部に派遣する事態になっていたが(おそらく北九州はその分手薄になったという情報があって近畿ヤマトは仲哀神功軍を派遣した)、北九州連合は半島防衛と近畿軍両面は支えきれず、高句麗軍南下を防ぐことこそ急務として、近畿軍と同盟(この同盟に反対したのが田油津媛ら内陸派)、同時に新羅百済も同盟、小競り合いはあったにしても367年頃には、百済+新羅+倭(弁辰北九州+仲哀神功軍)の対高句麗同盟が成立。369、371年には百済軍が新羅任那倭軍のバックアップを受け、高句麗国王を討ち取るという大勝利を収める。ここまで、確認まで、紀・三国史より。

(神功皇后紀の三韓記事部分は干支2巡120年繰り下げると朝鮮三国史の記述とよく合致する。)

367年、神功47年百済王朝貢、新羅の調使も一緒。【日本書紀(120年繰り下げ後)】
368年 百済は新羅と同盟(良馬2頭) 【百済本紀】
368年 百済使者来訪、良馬2頭を得た。【新羅本紀】

369年 高句麗王斯由(故国原王)が歩兵・騎馬3万人を率いて雉壌(黄海道延白郡か)に結集略奪。百済急襲・応戦。【百済本紀】
369年 高句麗王故国原王が2万の軍で南進して、百済と雉壌で戦ったが敗れた。【高句麗本紀】

369年、神功49年荒田別・鹿我別を新羅征伐に派遣、比自㶱(ヒシオ)・南加羅・㖨(トク)・安羅・多羅・卓淳・加羅の7カ国を平定。西に向かい・・意流村(オルスキ、京畿道広州)で百済国王近肖古と王子貴須と会う。【日本書紀(120年繰り下げ後)】

⇒367年、神功47年の百済と新羅が日本へ朝貢したとの記事。日本書紀の「朝貢」は大部分いわゆる朝貢ではなく、使いが土産を持ってやってきて何らかの話をした、と読む(以下特記ない限りすべて同じ)

⇒歴史とはこういうものなのか、大きく動くときは一挙に動く。百済・新羅が高句麗に直面しているときに、弁辰北九州と近畿ヤマトは関門海峡を挟んでにらみ合っていた。367年百済朝貢の紀の記事は、紀史上はじめて百済人が登場するシーン、しかも、新羅の土産は立派で百済はみすぼらしい、新羅がすり替えたのだと百済が主張し、倭はその確認のために千熊長彦を新羅に送るという記事になっている。紀編者の新羅悪者論が一貫してある(後述)がここもその一つ。意図的かどうかはともかくみごとにピントを外している。

367年(神功47年)の神功による新羅・百済面談記事は前後から史実とみていいと思う。戦争するつもりで長門までくればいろんな予兆や情報があったのだろう。北九州連合弁辰あたりの倭人勢力からすれば、倭人同士、近畿・北九州で戦っているときではない、高句麗対応こそ焦眉の急と説得した。

紀はこの前年神功46年(=366年)3月には斯麻(シマ)宿禰(紀はどのような人か分からないと割注を入れる)がすでに(伽耶の)卓淳(トクジュン)国に行き、百済王が倭に会いたがっているというメッセージを受け取ったと書く。・・この話自体の真偽はともかく、伝統北九州弁辰の外交官、百済や新羅の使者からも直接様々に見聞きさせた。そして最終的には神功らはこれを受けた。仲哀はとんでもないと最後まで信じず、だから、極秘裏に神功ら北九州と講和同盟派に早いうちに粛清された。

371年 高句麗軍大挙して来襲、バイ河(臨津江か)にて応戦。百済王近肖古王以下3万で高句麗平壌を攻撃、高句麗故国原王は流れ矢に当たり戦死。【百済本紀】
371年、神功51年3月百済王朝貢。千熊を派遣、丁重な接待。【日本書紀(120年繰り下げ後)】
371年10月百済王が3万の軍で平壌城(高句麗領)を攻撃、故国原王は流れ矢に当たって死んだ。【高句麗本紀】

372年、神功52年9月百済より千熊帰朝、土産に七支刀、百済の西谷那(こくな)の鉄を献上。【日本書紀(120年繰り下げ後)】

⇒369年の紀、荒田別・鹿我別の新羅派遣も、新羅と戦わず西に向かい百済王と会ったというのだから、これも倭、仲哀神功軍、の援軍であったと見ていい。371年には千熊長彦・久テ(クテ)を派兵、これが北九州弁辰軍だろう。こうして369、371年戦は、高句麗に対し、当時の百済単独ではありえない3万という大軍を擁しえたのは、百済+新羅+倭(弁辰含む北九州+神功軍)連合軍だったから。そして高句麗に対し記念すべき勝利だったと見て、矛盾はない。

372年には千熊ら凱旋帰朝、土産に七支刀、百済の西谷那(こくな)の鉄を献上。高句麗平壌戦役と対故国原王戦勝記念と感謝で、372年に七支(枝)刀(=石上神宮七支刀:369年銘説でよい、ぴったりだ)と西谷那鉄を、百済は倭王(北九州軍か神功軍かはともかく)にくれたのだ。

https://note.com/raccoon21jp/n/ne4663965808a

https://note.com/raccoon21jp/n/n8b13d57261fc

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北九州軍も一枚岩ではなかった。それまで拒んでいた関門海峡通航権を近畿側に認めるのが同盟援軍の条件だから、北九州側でも、仲哀神功軍との講和同盟に反対も根強かったが、岡(遠賀河口域)県主の先祖熊鰐(ワニ)が先導して福岡香椎宮に受け入れる、仲哀8年正月というがこれが西暦367年とみる。近畿軍が参加することとなり、それなら見通しは立つとばかり、百済新羅倭の三国同盟成立が急速に進んだ。

興味深いのは以下。

①369年戦には荒田別・鹿我別の名があり、加えて千熊長彦・クテの名がある。

②荒田別は上毛野の祖、鹿我別は陸奥上総国造の祖とか、いずれも80人も居たという景行の子供達で別(わけ)の名を与えて地方幹部にした(景行紀)一環で、近畿ヤマトの皇族将軍達。神功紀は最初兵の集まりは悪かったとも書く。近畿主力(吉備・近江・紀伊など)勢力は神功御前にはいたように紀は書くが渡海・戦争には名は出てこない。

③369年の高句麗戦、百済連合軍勝利の後、荒田別らは370年一歩先に帰国(神功50年条)、近畿に戻った、とみる。

④千熊とクテ(百済の将軍の可能性あり)は一歩遅れ帰国し、371年には再度、「千熊を以ちてクテらに副えて百済に派遣」(紀神功51年条)とあり、高句麗王を戦死させた。

⑤・・紀の文章からは、371年戦役には近畿勢は一切協力せず、現地神功軍と弁辰北九州軍のみが参戦したようにも読み取れる。

⑥現地神功軍は、この2度の高句麗との戦いで力をつけたと見る。最新戦争方法・大軍の運用・信頼できる将軍や軍団・そして北九州貿易派軍との同盟・そして何より大戦勝利の自信を得た。

⑦そして高句麗と百済間は、このあと3年ほど小康を得る。おそらくこの間に北九州貿易派の暗黙の了解のもとに、近畿との同盟を喜ばなかった北九州平野内陸部の甘木の羽白熊鷲や山門の田油津媛を神功軍(ここでの主力は近畿東国軍)が徹底殲滅、また前後して熊襲の反乱分子を吉備軍が掃討した。残る北九州貿易派の岡・伊都・ナなどに近畿軍の強さを見せつけた。この間約7ー8年かかったというなら、375年頃、舞台は倭(北九州から難波)に移り、紀は神功軍と麛坂(カゴサカ)忍熊(オシクマ)両皇子との戦争を語る。

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神功皇后紀は例によって出来事の順序を逆にし、三韓征伐、新羅の人質というさらに30年後の出来事を総括的に冒頭に書き、時間を引き延ばし、それ以前のできごとを神功50年前後のこととして残した。記にはいっさいこの出来事は記さなかったが、紀のほうは奈良時代外交官用の手元資料である以上、三韓征伐(正確には上記通り、百済新羅+北九州・近畿倭軍共同による高句麗撃退)を全く無視するわけにもいかず、さらに神功は魏志倭人伝の卑弥呼に相当という解説(神功39-43年条)まで加え、全体を干支2巡、120年繰り上げたのである。


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