新羅史に見る新羅・倭交流史(3)

667.668.新羅史に見る新羅・倭交流史、 承前。345年 倭国と正式断交。につづく・・

346年 倭軍が風島(不明)を襲撃、進んで金城包囲、持久戦に持ち込み防衛。

356年 17代奈忽尼師今、即位。姓は金氏、母も金氏、王妃も金氏。16代訖解王に子はなかったと。同姓を娶るのはかなり異常なはず・・
純粋金氏が王となったらしい。

(8)350年頃から450年頃まで、倭は朝鮮半島に積極関与、特に新羅を攻め立てる。これまでの倭とは違う。新羅で倭系の王統が切れたことが一因か?もし応神朝が負け組新羅の倭系統ならこの時期の拘り方にも納得がいくが・・。 


364年 倭兵大挙して侵入、吐含山に草人形数千・斧峴(慶州市南東か?)に勇士千名を配し、多数を頼んでまっしぐらに来る所を不意討ち、倭兵は大敗・逃走、殆どすべて殺した。

366年 百済使者来訪
368年 百済使者来訪、良馬2頭を得た。同盟成立?
373年 百済の禿山城主(不明)300人と共に新羅に。百済王との交渉結果そのまま認められる。

392年 高句麗から使者来訪、高句麗は強大なので伊食(サンズイ?ニスイ?いさん)大西知の子、実聖を人質として送る。

北の高句麗、南の倭に対し、新羅・百済の同盟はできているが全く機能しなかったようだ。この頃高句麗は有名な広開土王の時代である:廣開土王(374年 - 412年)は高句麗の第19代の王(在位:391年 - 412年)・・

393年 倭軍が侵攻、金城を包囲し5日も解かなかった。 新羅王「倭軍は舟を捨て内陸深くに入り込んで死地にいるので矛先は鋭い」として持久戦に持ち込む。倭軍の帰路、独山(慶北月城軍四面)に追い込み撃退する。

395年 靺鞨が北辺を侵したので悉直(江原道三陟章郡)の原野で撃退する。

401年 高句麗から人質実聖が帰国。

402年 18代王に実聖が即位。大西知の子で奈忽王とは血統は切れている。

402年 倭国と国交を結び、前奈勿王の子、未斯欣を人質として倭に送った。

403年 百済国境を侵す。

405年 倭兵が明活城(慶州市普門里)を攻める。
407年 倭人が東辺を侵し、また南辺を攻める。
408年 倭人が対馬で戦争準備中との情報あり王は出撃したいというも近臣に止められる。
412年 高句麗に前奈忽王の子、卜好を人質として高句麗に送る。
415年 倭人と風島で戦闘、勝利する。

417年 19代訥祇麻立干が即位。奈忽王の子。金氏である。

418年 高句麗への人質(王弟の卜好)帰還。倭国への人質(王弟の未斯欣)は逃げ帰ってきた。

424年 高句麗と国交樹立。

431年 倭兵が東辺を侵す、また明活城を包囲するも効なく退却。

433年 百済と講和。(百済から良馬2頭、新羅からは黄金と明珠)

倭の勢力が活発だが、高句麗・百済・新羅同盟、というより高句麗が新羅と百済を勢力下に治めたようにも見える。

440年 倭人南辺を侵す。また東辺を侵す。
444年 倭兵金城を十日包囲、食料が尽きて帰るところを王が追撃し大敗する。⇒ここで倭は新羅を勢力下に入れていると読む。

454年 高句麗(はっきり高句麗とある)が北辺を侵す。
455年 高句麗が百済を侵したので、新羅は救援した。

(9)倭国は350年頃から500年頃まで、新羅との戦いに異常なほど拘る、しかし500年前後には新羅や伽耶への関心が極度に薄れる。


⇒倭は364、393、405、431、444年、459年などたびたび王都(慶州)に迫るが、480年頃以降は辺境を侵す程度にとどまる。理由としては、新羅の国力が強まったこと、倭の側での王統の混乱・統治外交力の著しい後退?、両方のように見える。

⇒実体としては、北の高句麗、南の倭との戦いを続け新羅は独立を何とか維持、こうした中で新羅の軍事力は高まっていくと見る。雄略の死が489年(記)~479年(紀)ころ、雄略の死で、朝鮮での倭の軍事行動も急失速する。

459年 倭人が兵船百余隻を以って東辺を襲い、月城を囲んで進撃したが、追撃してこれを破る。
462年 夏五月に、倭人が活開城を襲い破り、一千名を捕らえて連れ去った。
463年 倭人が歃良城(慶北梁山郡)を攻めるも勝てずして去った。国境地帯に防衛上二城築く。

468年 高句麗と靺鞨が北部悉直城を襲撃。

470年代、 城の新設・修理の記録が続く。

474年 高句麗王長寿王が百済を攻める、百済の要請に応じ救援に向かうが王都陥落・蓋鹵(がいろ)王も殺された。

476年 倭人が東辺を侵す。
477年 倭軍が五道を通って侵入したが、得るところなく引き揚げた。

480年 靺鞨が北部を侵す。
481年 高句麗と靺鞨が北部7城を落とす、百済・伽耶の援軍を得て防衛する。

482年 倭人が辺境を侵す。
484年 高句麗が北部を侵す、百済の援軍を得て防衛。
486年 倭人が辺境を侵す。
489年 高句麗が北部戈?(カケン、江原淮亥陽郡)にまで侵攻、狐山城陥落。

494年 高句麗軍が百済侵攻、百済を救援し成功。
496年 伽耶から白雉を送ってきた。
497年 倭人が辺地を侵す。
500年 倭人が長峯鎮を攻め陥す。

(10)新羅の法興王・真興王の時期には国力充実、百済や伽耶を侵し、伽耶を勢力圏に収めていく。倭の影響力は大きく後退し、沈黙したまま。


500年 22代智證麻立干、即位。金氏、母は金氏、王妃は朴氏。

502年 殉葬を禁じ、王自ら神宮を祭る。

503年 正式に国号を「新羅」、国王称号も方言をやめて「王」とする。

514年 23代 法興王即位。金氏系統だが、母は朴氏、王妃も朴氏。

522年 伽耶国王が花嫁を所望、伊サンの比助夫の妹を伽耶に送る。

524年 法興王が南部国境地帯を巡幸、伽耶国王が来て会盟する。

532年 金官国王金仇亥が王妃・三王子を投降、その国を食邑として保証する。

540年 24代真興王、即位。金氏。母も金氏。王妃は朴氏。王母の摂政で始まる。

541年 百済と講和。

548年 高句麗がわい(ノギヘンに歳)人と百済独山城を侵攻、百済を救援、高句麗を撃退。

550年 高句麗と百済の戦争の中、新羅は高句麗の道薩(忠北キ山郡)・百済の金?城(忠北鎮川郡)の2城を奪取。

551年頃 伽耶の10郡を奪取?(伽耶琴の説話紹介)

553年 新築宮殿に竜が現れたので皇龍寺とする、このころ仏教関連記事も多い。

553年 百済の東北部を奪取し新州とする。百済の王女を小妃とする。

554年 百済聖明王、伽耶(加良)と連合し管山城(忠北沃川郡)で戦闘し、新羅が圧勝。

562年 百済が侵入、伽耶反乱。伽耶城に新羅侵攻。伽耶軍降伏。

(11)最後の562年の記事が任那日本府の滅亡にあたる。


⇒532年に伽耶王が投降してきたといい、562年に反乱を鎮圧したと新羅史は言うが、

⇒参考まで記紀によれば;

倭の雄略天皇が死ぬのが480~490年頃。死後混乱が続いたようで継体天皇が越前から迎えられ即位するのが507年、ようやく20年後の526年に大和磐余に入る。512年に大伴金村による百済への任那4県割譲、527年には近江毛野臣の6万の伽耶救援部隊が筑紫君磐井に妨害される(磐井の乱)。531年には継体崩御。欽明天皇即位が540年とされるが、554年には聖明王をも見捨て?、562年には任那の官家(ミヤケ)が新羅に打ち滅ぼされた、と語るのである。
⇒⇒・・倭でのこの時期の筑紫と近畿の関係、倭はどこと結ぶのか伽耶か百済か、そして倭王統の混乱、統治の混乱も含め、この間相当なことがあったはずなのである。・・武烈天皇(500~507年)の悪逆ぶりや仏教公伝などどこから見ても末節のお話なのである。この辺の記紀もよくわからない。 

(続く)

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