エヴァが、終わった

シン劇場版エヴァを見て、まず最初の感想は、「本当に、終わった…」だった。

かれこれ20年以上かけて、ようやく1つの終点にたどり着いた感覚。
正確には3回目の終着なのだけど、アニメ版も旧劇場版も、観客は「えっ…これで終わるの…」と、荒野に取り残されたような、宇宙空間に放り出されたような、そんな感覚で終わっていただけに、今回の終幕感は感無量である。

それと同時に、やはり自分は庵野監督の頭の中のほんの5%くらいしか理解出来ないのだな…という、相変わらずの置いてけぼり感もある。
それがエヴァだから、そこはもう受け止めるしかないのだけど(笑)

エヴァについては、もう受け止め方が千差万別だし、全てを理解して1つの正解を導き出すのは不可能という立場に立ってしまうのだけれど、今回の劇場版を見て感じたことを、少し書こうと思う。

乱暴に言ってしまえば、エヴァの世界で起こったことは、「全て碇ゲンドウという人間が相当にヤバイ人だったから」ということになるのだけど(笑)
後半のゲンドウの独白は、「嗚呼、私も一緒だ」と思わざるを得なかった。
外部の騒音から自分の世界を守るためにイヤフォンをしてこの文を書いていて、他人との接点を持つことへの恐怖を拭えないまま、オトナになってしまった。
誰とも分かり合えない世界を生き続けることへ絶望しながら、「いっその事世界が消えてしまえばいいのに」と思いながら、満員電車に乗る日々。
あそこに座っている疲れたサラリーマンも、キャピキャピ喋っている女子高生達も、皆自分とは違う世界の住人。
私は私の大事なモノだけを守りながら生きればいい。
そうやって生きてるのは、きっと私だけじゃないはず。

だから、社会性動物なはずのホモ・サピエンスという動物が、こんなに社会を生きることに戸惑っているのなら、いっその事その先へ進化させてみたらどうだろう、という“人類補完計画”を意外と受け入れられる自分もいたりするのだ。
まぁ、そのためにヒトであることを捨てて、世界をぶっ壊す首謀者として何十年も計画を練って行動し続けるだけの執念は私にはないけれど(笑)

最終的にそんなゲンドウの計画を止めるのは、本来はゲンドウが愛し守るべき存在である息子のシンジ。
シンジは、「Q」での自分の行動が、世界の終わりに繋がってしまったことを、ずっと受け入れられずに、塞ぎ込んでしまう。
そんなシンジに対し、アスカが放つ言葉は、碇ゲンドウ的に自分を守り、閉じこもりながら生きる私にグサグサ刺さりまくったのは、言うまでもない。

そんなシンジの心を溶かしたのは、初めて外の世界の人や生活に触れた(仮)アヤナミレイや、元同級生たちの「優しさ」だった。
それは、誰かを責めたり傷付けたり、他人を攻撃対象にばかりしている現代の私たちが、得ることが難しくなってしまったものなのかもしれない。
私たちは誰かと繋がりながら、自分の存在を受け入れ、認め、愛し、その上で誰かの為に動くことが出来る。
私が孤独に逃げれば逃げるほど、私は私を受け入れられず、認めること出来ず、自分の事ばかりを考えるという負のループの中で生き続け、成長する事も出来なくなる。
シンジが自分のした事を全て受け入れ、ミサトさんの思いを受け止めながら戦っている姿に、敵であるはずの父親でさえも、「成長したな」と声を掛ける。
そして、20年以上に渡りその心にエヴァを灯し続けた我々も、「この物語はシンジの成長をもって本当に完結するのだ」と、エヴァシリーズの終わりを察するのだ。

さて、真の終わりを迎えたエヴァを見て、私の脳裏に浮かんだのは、自分はシンジになれていないということだ。
自分の全てを受けいれ、周囲の人達と関わる事を恐れてはいけない。
傷つくことから逃げてはいけない。
分かってはいるけれど、人生を通して染み付いてしまった逃げ癖は、ちょっとやそっとじゃ離れてくれない。
でも、それでも私はシンジを目指しながら、時には自分に絶望しながらも、諦めてはいけないのだろう。
自分を自分で見放したら、それはもう私の人類補完計画のが完遂されることになるのだ。
誰かが止めてくれるほど、私は誰かに愛されちゃいない。

ところで、ゲンドウは最後の最後までシンジを「ユイとの繋がり」としか認識出来なかったわけだけど、本来ゲンドウが抱くべき愛情を集約して生まれたのがカヲルくん…なのでしょうか?
常にカヲルくんの存在は謎で、どう解釈したら良いのか分からず…。
まぁ、だからこそのカヲルくんなのですが!
(完)

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