見出し画像

紅に染まった客室

※ 有料設定してありますが、全部無料で読めますのでお楽しみください。

 人間や人間を取り巻く文化や環境は多種多様である。これは人間という役割を果たす上で持っていなければならない共通認識だ。近年ではかなり市民権を得てきたように思うが、やはりまだまだ浸透しきっていない認識であり、実際になかなか理解し難い多様さがあることも事実である。偉そうに書いている僕にも受け入れられなかった他人の文化や環境には覚えがある。それは貧乏な友達の家の夕飯にその日一緒に釣りに行ったアメリカザリガニが出てきた時だったり、逆に裕福な茶畑生まれの友達がお付きの大人を蹴っ飛ばしてアゴで使っているような家庭環境の歪みを目にした時だったりに感じた。同じように、僕が近所の子供達に三百円でカブトムシを売りつけていたことに難色を示した周りの大人たちも、僕の営みをそういうものなのだとは許容できなかったのだろう。成人してからしばらくは都会に一人で生きてオフィスと家だけを往復していたから、強烈に閃光を放ち目眩をさせるような異文化には出会っていなかった。その状況を何故かいい方に勘違いしていて、それは僕が大人になって様々な文化を許容できる価値観を自己形成したからなのだろうと考えていたが、それは本当にただの勘違いだった。異文化と交わる機会がなかっただけで、僕にはまだ受け入れられないことがたくさんある。これはラブホテルが僕に与えてくれた教訓であった。

 ラブホテルには奇行をする人間がたくさんくる。例えば必ず水曜日の二十二時に一人で決まった部屋を借りて朝八時にチェックアウトするいい生地のスーツに身を包んだ男性や、監視カメラの存在を知らずに非常口の死角で性行為を始めてしまうカップル、来店の度にトイレットペーパーをワンロール置いていく老夫婦など本当に奇行も人も多種多様だ。そんな中でも夏の暑い時期限定でやってくる客がいる。僕らのラブホテルの要注意リストに記載されている彼のことを従業員の間では「紅」と呼んでいる。

 ところで僕の勤めるラブホテルには十年ほどの歴史があり、その中で要注意リストと出禁リストが生まれた。要注意リストには他の客や従業員に迷惑をかける行為をしたものの、差し引きしても営業利益が勝る程度の客について書かれている。部屋を過度に汚していったりフロアに響く騒音を出したりする程度の迷惑であればこちらに監視カメラを元にした写真や会員番号が載る。出禁リストには営業利益を帳消しにする行為だったり明確な規則違反や犯罪行為がみられた際に要注意リストと同様の情報が追加される。小細工をして二人用の部屋に三人で入室したり薬物のようなものを部屋で使用したり美人局や金の持ち逃げなどを行なった客が載っていることが多い。最近ではエレベーター内で排泄をしたカップルが新たに追加された。こちらに載る客は強烈さが尋常ではないので大体フロントで徹底マークされている。入室させてしまって再度問題が起きた場合は給与から一万円が天引きされるという罰則が設けられるほどだからラブホテル側はとんでもない辛酸を舐めたに違いない。実際エレベーターでの排泄は業者を呼び一日エレベーターを停止させなければならずかなり迷惑な営業妨害であった。警察が絡んだりするものであればその度合いもなおさらだろう。紅は夏場には毎日来店する利益をもたらす単価の高い客なのでギリギリ前者の要注意リストに載ることとなったが、それは僕ら従業員が一夏の間に数十件のクレームを受けることを意味する。紅によるクレームの内容は騒音だ、それもとても美しい歌声が成すクレームである。

 客室から大音量でX Japanの紅が聞こえて集中できないから止めてほしい。そう最初にクレームが入ったのは三年前らしい。僕がこのラブホテルに就職する前から紅はラブホテルに紅を響かせていた。それも夏季限定だ。若干時間にばらつきはあるが、彼は朝七時半ぐらいに一日分の食料と酒を買い込みチェックインを済ませる。フロントでの対応には何の問題もない。ここまでは普通すぎるぐらいに普通のおじさんだ。チェックインを済ませて一時間ぐらいすると彼の部屋から紅を歌う美声が漏れてくる。それから大体二十分に一度ぐらいの頻度でフルバージョンの紅がフロアに響いてくる。またそれが本物さながらにうまいから腹も立たない。隣の部屋には特によく歌声が聞こえてしまうのでなるべく両隣の部屋に客を入れないようにしていたが、忙しい日はそうもいかない。ラブホテルの利益を阻害しないこと、というのが彼を上客として受け入れる条件だからだ。そうすると当然クレームが入る。それはそうだろう。ラブホテルにきて隣の部屋から紅を歌う声が聞こえれば情事に集中できないだろうし、それまで綿密に作戦を立てて作った雰囲気も壊れてしまう。この出来事をきっかけに別れてしまったカップルがもしかしたらいるのかもしれない。それはそれで運命なので抗わずに従えばいいのではないかと運命論者の僕は思うが、当の本人たちはそれ以外の運命に後ろ髪引かれるのだろう。だが紅ごときで別れてしまうようなカップルはデートで訪れたパンケーキ屋が微妙でも、入ったレストランが店主の身内だらけで肩身の狭い思いをしても、海辺を薄着で散歩したら思いのほか寒くて後悔してもどこか険悪になり紅で雰囲気をぶち壊しにされたのと同じように幸せを逃していく。逃したという表現は間違いかもしれない、もともと長く交わる運命ではなかったのだ。運命というのは数奇なものでありながらもあらかじめ用意されて仕組まれた必然である。後ろ髪を引かれた仮置きの未来はハリボテの幻想であり、実ははなから存在してすらいないのだ。逆に紅の歌声がきっかけで結婚したという事例だってあるかもしれない。これもまた運命ではあるが、これは紅によって不幸になった客がいるという妄想よりはいくらか気分がいい。例えばX Japanのライブの帰りに少しいいフレンチ料理を食べてほろ酔いでラブホテルにチェックインした日の翌朝、紅が隣の部屋にチェックインし自慢の歌声を披露する。モーニングコールの代わりにそれを聴いたカップルは寝ぼけ眼で笑い合い、昨日のライブの熱い感想戦を繰り広げる。そのうち話が弾んで脱線しての蛇行運転を繰り返し「そういえばもう付き合って五年だね」という何だか突拍子のない一言が出てから二人は妙に結婚を意識するようになり、数ヶ月後に結婚式を挙げたのかもしれない。紅が五年間停滞していたカップルの結婚の立役者になったのだ。まあこれも空虚な妄想でしかないのだが。結婚報告など実際のところあるわけもなく、フロントに届くのはうるさいだとか壁に穴が空いているのか、などのクレームだけである。

 何故紅なのだろうか。意外にも従業員は全員この答えを知っていた。僕になかなか素直に教えてくれなかったがヒントをくれた。彼らが僕にくれたヒントは「夏」と「高校生」であった。最初はピンとこなかったが紅が来るようになって数日経ってその意味がわかった。甲子園である。彼は朝からラブホテルに甲子園の応援をしに来ている。紅は甲子園のスタンドから吹奏楽部が奏でる定番の応援ソングである。甲子園を見ながら飽きもせず紅を歌っている、なかなかの奇行だ。彼は何でこんなことをしているのだろうかとクレームの度に考えてみたがわからない。だが物事には理由があるはずで、例外は存在しない。僕はいくつかの仮説を立てることで彼が生んだクレームへの苛立ちを想像力へ変換することにした。

 最も有力な仮説は「紅は高校球児だった」という説である。およそ二十年前、神奈川あたりの甲子園常連校で白球を追いながら肌を浅黒く焼いた高校三年生の夏、彼はついに憧れだった甲子園の土を踏むことになる。レギュラーメンバーで不動の四番だった彼は全ての期待を一心に背負って最終回一打出れば逆転の場面で打席に立つ。打てば勝利、負ければ甲子園の土を踏むのは最後になるという場面で彼はものすごいプレッシャーに襲われていた。今までの辛い練習やチームメイトのこと、野球だけに賭けてきた青春の日々を思い出しながら気が重そうに前を向く。すると彼の耳には今までのどの応援よりも鮮明に紅が聞こえたのだ。少しその鮮明さに驚きながらもプレッシャーで折れかけた心は蘇り、バットを握る手には力が漲る。その体験を忘れることは一生ないのだろうと彼は悟った。それから数十年経ったが、彼は野球から完全に足を洗った今でも甲子園での記憶に囚われている。あの時の紅を忘れられず、夏になるとそれを懐かしむようにテレビの前で紅を歌うのだ。

 次の仮説は「甲子園に救われた」という説である。彼の家は代々の地主で地元の有力な家だったが、そのパワーバランスは彼の父親の不祥事によって崩れ去った。彼の十八回目の夏であった。代々生まれ育った土地を追われてしまった彼は日々ぼんやりテレビを見て過ごした。無気力に、そして怠惰に。そんなある日ぼんやりとテレビを見ていた時に高校野球に出会った。親の金で遊んでは楽して過ごしてきた紅はスポーツなどやったことも見たこともなかったし、ひたむきさや青春のようなものに鬱陶しさすら感じていた彼はむしろそういったスポーツやらを避けて通って生きてきたが、なぜかその夏は夢中になって白球を追う高校球児たちに魅了され続けた。それは運命だった。落ちぶれて折れかけた彼の心は高校球児たちのひたむきさや情熱に感化されて生命力を取り戻し、初めて自力で仕事を見つけて必死に働いた。全てはその一夏のためだった。彼は一夏を丸々休暇にするために他の時期に必死に働くようになり、十年ほどは甲子園にも直接足を運んでいた。体力的にそれが厳しくなってからはラブホテルにこもって高校野球を応援するようになった。ラブホテルは自室より応援に集中できるからだ。己を救ってくれた高校球児たちに向けて、彼は今日も紅を歌い続ける。ひたむきに、そして情熱的にその声が枯れるまで。

 最後の仮説は「借金取りに命を狙われている説」だ。彼は多額の借金を抱えていて、春夏秋冬で拠点を変えながら生活している。夏は下町のラブホテルと漫画喫茶を転々して過ごしている。一年ほどだと思ったこの生活もいつの間にかもう三年目である。そろそろどうにかのらりくらりできるだけの隠し金も尽きそうだしどうしようか。途方に暮れながらテレビをつけると甲子園で激闘を繰り広げる高校球児たちがモニターに映し出されている。今年も暑い中ご苦労さんと鼻で笑いながら何となく試合を見ていると毎年のことながら不安になってくる。来年の自分はどうしているのだろう、こんな生活はいつまで続くのだろう、そろそろ借金取りに殺されてしまうかもしれないなど思い浮かんでは消えていく悩みには枚挙にいとまがない。画面上の高校生はこんなに輝いているのに自分は借金に追われて何をやっているのだろうという虚しさがワンセットだ。だが虚しさと不安にかられながらも不思議なことに死にたいという感情は一切襲ってこない。それどころか来年はどう生きようかなどと考えている自分がいる。つくづく自分はこんなに生き汚いのだと痛感させられる。この執念を他に活かせなかった時点で人生の負けが確定したのだ。そういえば最初の借金は友達に金を貸すために代わりにした三十万だったなと思い出した。僕もそんなにお金があったわけじゃないからその借金を借金で返していたら、そのうちに首が回らなくなってきて今の状況になってしまった。あの時どうしてお金を貸したのだろうと後悔もしたがもうとっくに手遅れである。お金を貸して友人とも半月後には連絡が取れなくなってしまった。今もどうしているのかはわからない。借金をばっくれてどこかで幸せに暮らしているのかもしれない。金の前には友情など脆いものだ。視界はそのあとからずっと真っ暗で、光もない人生をずっと歩いている。だが息をしている間はどうにか生きねばならない。そうやって思考をぐるぐるさせていると思考の外側から高校球児たちの掛け声とブラスバンドが聞こえてくる。やはり高校球児は眩しいものだ、この頃に戻りたい。だがそれはできないし彼らの輝かしい未来の役に立つこともできなさそうだ。不安をかき消すために今年も紅を歌う。蝉のようにけたたましく、僕は夏を精一杯生き抜くのだ。来年は借金取りに殺されて生きていないのかもしれないのだから。

 仮説は全部僕の妄想の産物だが、このぐらいに濃いエピソードをでっち上げなければ紅の奇行に説明がつかない。むしろこれでも足りないくらいではないだろうか。僕らは何度も注意の内線を部屋に入れているがそれでも彼の歌声は暴走列車のごとく止まることを知らない。命の危険が付き纏っているとしか思えない。だが、冷静になって考えてみるとこれは彼の周りを取り巻く環境や生活のせいかもしれない。「紅を歌うことを常識だと思っていた」という説だ。彼の父親は家のリビングで紅を歌っていたのかもしれないし、高校球児への応援には紅を歌いなさいと言われて育ったのかもしれない。彼の母校が甲子園の常連校で、その校歌が紅だったのかもしれない。灼熱の紅教なんて宗教が地下で立ち上がっていて彼はその教徒である可能性もある。時に人は相手のバックグラウンドを知らずして「お前のその言動はおかしいよ」という一言で相手を一刀両断して深く傷つけたりする。誰にでも傷つけたり傷つけられたりした記憶があるだろう。自分の常識が外の世界では罪であると断罪されることの傷は意外にも大きく、紅ももしかしたら幾度となくおかしいという言葉をかけられ傷を負いながら、それでも自分はおかしくなんてないのだと半ばヤケになって紅を歌い続けているのかもしれない。答えはわからない。ただ、そんな立派なものであるなら貫いてほしいと思った。ラブホテルとしては迷惑だが、僕は何だか紅のことを応援したくなった。

 その日の夕方、フロントに鍵を返しにくる紅に何故紅を歌い続けるのか訊いてみた。すると他でも注意されたりしているのだろう。少し気を害した様子で「カラオケ行く方が高いんだよね、テレビもないし。で、なんで?」と言った。僕が答えに詰まっていると彼はドスドスと足音を立てて去っていった。それを聞いた僕は何だか晴れやかな気分だった。頭上の棚から出禁リストを取り出し紅の情報を記入して情報共有のメールを送信した。全て書き終わる頃には業務時間も終わっていて、夏の青空に清々しさを覚えながら帰路についた。

ここから先は

0字

¥ 300

期間限定 PayPay支払いすると抽選でお得に!

甘いもの食べさせてもらってます!