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繋がりが絶たれた夜、孤独は闇を深くする

ニュースにもなった話があるから前後関係をずらすし詳細は伏せるけれど、僕が二十歳を迎える前後数年間で周りの人間が何人も自殺した。付き合っていた女性が富士の麓で練炭を焚き、父親が一級河川に飛び込み、家族同然に接してきた友人が公園のブランコで首を吊った。誰かと仲良くなることが怖くなった。

それから数年経った今でも、僕は人と深度の深い関係を築くのを避けて逃げ回っている。仲良くなってしまえば最後、僕を置いて死んでしまう気がするのだ。だからあまり深いところまでは関わらない。年に数回会う程度のそこそこ仲のいい友人が増えても、気楽に呼び出し合って顔を突き合わせる相手はいない。そのまま25歳になってしまって、あと1週間も経つと26歳になる。

このままの状態に留まることが人生を豊かにするとは思わないし、どこかでしなやかに形を変えなければいけないのだけど、それだけのことが酷く難しい。数年かけて凝り固まってしまった思考という名の思い込みが僕の孤独を深くしている。

「誰もいても、何をしてても、いつも決まって居心地が悪いんだよ」

これは反社だった僕の父親がよく言っていた言葉で、僕は今それをしきりに呟いていた父の気持ちがなんとなくわかってしまっている。きっと父も僕と同じ孤独を湛えていたのだ。

付き合っていた女性が練炭を焚いたのは僕が18歳の頃で、アルバイトをしていたホームセンターで同じく働いていた人だった。付き合う前も、付き合い出してからも明るかったはずなのに、出会って半年ぐらいしたある日急に死んだ。僕の担当する資材レジ売り場のレジで練炭を買って帰り、その足で山に向かったらしいと事情聴取に来た警官から聞いた。

「練炭なんて何に使うの?」とでも訊けば少しは未来も違ったのかもしれないけれど、当時は練炭で自殺なんてことは思い付かず、せいぜい実家でバーベキューでもやるのだろうと呑気なことを考えていた。彼女の実家には広い庭があって串打ちのうまいアウトドア趣味のお父さんがいたから。

上京前の春休みにと立てていたデートの予定がなくなり、僕は地元のたいして仲良くない同級生を誘ってふらふらと旅行先に向かった。悲しいとか寂しいという気持ちより、僕がとったホテルや何やらが無駄になるのが嫌だったからだ。でもなんだかずっと居心地が悪くて、ホテルの部屋を出て海に向かった。夜の黒い海に発する鈍い船と月の明かりだけを頼りに砂浜をふらふらした。春先にどこで買ったかもわからない花火に火をつけるカップル、階段でグリコをする学生集団、犬の散歩をする老夫婦、みんなひとりじゃないのに世界で僕だけが孤独な気がして、高い柵を乗り越えて座ったテトラポットで何時間も泣いた。今でもその時の孤独を夢に見る。

それからすぐに上京して数年が経ち、4回行っただけの大学を中退したり、オカマバーで働いたり、何人か新しく彼女ができたりシステム屋の仕事に打ち込んだりしてすぐに4年が経った。4年も都会で喧騒の海を泳ぐと当時の思い出も薄れて、少し孤独感が和らいでいたことを感じていた。このまま忘れていければいいなと思った矢先、4年間帰っていなかった地元の友達がよく一緒に屯していた公園のブランコで首を吊ったと地元の人間と唯一繋がっていたインスタで知った。理由は今も知らない。僕はすぐにスマホからインスタを消して真っ暗な部屋に閉じこもった。

僕が地元に帰って声を掛けていたら何か違っただろうか、東京に誘って一緒に仕事をしていたら楽しかっただろうか。そんなことが頭をよぎった頃には全て遅く、手のひらに掬った水よりも早く彼との思い出だけが溢れていく。1ヶ月で15キロ痩せて、今も体重は戻っていない。

僕は高校で殴られないまでも机にネズミを入れられるみたいな陰湿な酷いいじめに遭っていて、それを表立って助けてはくれないけれどトボトボ帰っていると一緒に近所の公園で煙草を吸ってくれるのが彼だった。家庭環境もあまりいい方でなかったから、帰りたくない日は幸楽苑でラーメンを食べてから帰ったりした。卒業してからも深夜に車を飛ばして色々なところに連れて行ってくれた。心の支えだった。

4年もその存在を恋人の死を忘れたいからと疎かにしていた僕が迂闊で愚かだったのは言うまでもないのだけれど、まさか死ぬとは思っていなかった。「まさか死ぬとは思っていなかった」なんてDVで誰か殺してしまった男とか、包丁で人を刺してしまった人間と同じ言葉を部屋の隅でボソボソ呟く日が来るなんて思わなかった。そんな人生に酷く落胆したし、もう誰かとあんまり関わりたくないなと感じた。そうして会社を休職し、とにかく昼間に寝ては夜に起きて、遮光カーテンの裏側で暖かい朝日から逃げ続けた。

そこに立て続けにコロナがやってきて会社が潰れ、休職していたはずだった僕はいつの間にか失業者になった。貯金が底をつき、借金を重ねてようやく少し動かなきゃいけないなと思って面接をいくつもしたけれど、やつれて覇気のない僕を採用したい会社もバイト先もなくて、僕はライフラインの止まってしまったワンルームの木造アパートで膝を抱え続けた。

やっと就職に漕ぎ着けたラブホテルに就職してからは皆さんご存知の通りだ。ラブホテルで適当に働いて書いた日記でTwitterアカウントが大きくなり、TwitterでDMを募集して誰かと会っては連絡を断ち、誰かと仲良くなっては突然消えてを繰り返して今に至る。もういい年だからそんなこともしていないけれど、孤独のザルに水を注ぐにはちょうどいい時間だった。ザルに水を注いだって水は溜まらない。何も満たされることのないまま、孤独という空虚に目を向けずに過ごした。

それから2年ほど経ち、Twitter芸人をやめて真面目に働こうと奮起していた時、当時ついてくれていた編集者さんの旦那さんが紹介してくれたIT企業に就職した。派遣された企業は2交代12時間拘束の最悪な仕事だったけれど、人間関係良好な職場でそれなりに楽しく仕事をしていた。ある日の夜勤中、普段滅多にない母親からのLINEがあった。

「親父死んだから今度おばあちゃんちで線香あげてやって」

これだけの文面だったけれど、僕はこの通知を目にしてすぐに現場のトイレで吐きまくった。僕の父親は反社として数十年生きてきた人間で、コロナ前から子供も自立したからと属する団体から足抜けしようと少しずつ動いていたらしい。ただ、そんなに簡単にやめられるものではなかったようで職場への嫌がらせや実家へのイタズラでかなり妨害を受けていたらしかった。その極めつけに不審火を装って実家を燃やされてしまって、怯えた父は地元の川に飛び込んで死んだ。不倫とパチンコ三昧で不機嫌ならば子どもをぶん殴り、対外的には飄々として口が上手く、とても死ぬような人間には思えなかった父親が自殺という形で簡単に死んだことに驚いたし、またこれで一つ孤独になるんだなあという絶望感は僕をどん底に突き落とした。それから今までずっと、晴れない心のまま過ごし続けている。

「誰もいても、何をしてても、いつも決まって居心地が悪いんだよ」

父親のこの言葉を思い出すたびにふざけるなよと思う。僕を孤独にしたのはお前らだろうと部屋で呟いてみるけれど、彼らはいずれも会話のできる場所にはいない。僕の言葉だけが家の壁に溶けていって、その後に訪れるのは音のない暗闇と虚しさだけだ。どれだけ抱えたかわからない膝を毎日抱え、くだらない文章を書いて紛らわしてきたけれどもうそう長くこの生活に耐えられそうにない。

いつかはこの状況を抜け出すために暗闇を抜けて太陽の下に進んでいかなければならない。いつかは別の自分になるために誰かと手をとって共存していかなければならない。だけどもしやっと辿り着いた太陽の下に雲がかかり雨が降れば、もしも手を取った誰かがまた自殺するようなことがあれば、その時はまた大きな絶望を味わうのだろう。今度の別れはきっと今までのようにただ生きていて享受した繋がりではなく、自分で掴みにいく縁だ。それすらも失った時、まだ僕は歩けるだろうか。

こんなことを恐れているうちは多分何も変えることはできない。友人や恋人を突き放してひとりで過ごしては、また同じように恋人や友人を作ってを繰り返すのだろう。そうやってザルに水を注いだって下に器がなければ何も残らない。土に水が還ってどこかに消えてしまうだけなのだ。ずっとこれが続くぐらいなら死にたいなとぼんやりしていたけれど、去年の暮れにそんなことが馬鹿馬鹿しく思えて、髪を染めて大きなピアスを開けた。キャリアプランを全部捨てて好きな仕事に従事し、嫌いな人間の連絡先を片っ端からブロックした。今も孤独は埋まらないままだけれど、好きに生きていたら少しだけ肩が軽くなった。

もうすぐ本格的に春がやってくる。春は新しいことがたくさんある季節で、世の中には希望と絶望が交差する。死にたい人も多くいるだろう。これを読んだのなら、そんな時少し思い出してみてほしい。僕は誰に対しても別に無理して生きろとか、死ぬなとは思わない。ただ、死んだ先で身近な誰かが孤独になり、その孤独は決して埋まることなく他者の人生の輪郭を周回し続ける。忘れ去ることもできなければ、他の誰かで代替することも不可能だ。

生きていれば誰もが死に、誰もが孤独の暗闇に包まれる。だけど、それは少しでも遅い方がいい。誰もがなるべく長い時間、日の元の暖かいところで笑顔でいられるといいなと思う。

甘いもの食べさせてもらってます!