蛇足

「先生、アタシはおかしいのでしょう。誰かは飲み込めるような出来事を、こんなにも、うだうだと嘔吐いているのだから。」


 白い箱のような空間に、簡易的な家具が少し。対面に並べられたふたつの椅子の間を隔てる大きな机。勉強机の上に置くような照明と筆記用具が、机の端に寄せられている。コンパクトなカレンダーには、カウンセリングの予約の時間が小さな字で書き込まれている。カラフルな文字であるのは、クライアントごとに色分けしているからだろう。

 先生は紙を挟んだバインダーを片手に、柔らかな表情で、正面に座る私が話し出すのを待っていた。

 冒頭の言葉を述べると、先生はゆっくりと首を振った。

「……いや、そうですね。アタシ以外も同じことを思っている人が少なからず居るのですから。それがどうも許せない事が、おかしいのでした」

 先生は悲しそうな表情をしていた。哀れみのような、同情に似た慈愛にも思える。

「自分だけが特別でありたくて、誰かと同じという事実が認められない。だから、生きにくいと感じ、ここに居るのです」

 一方的に喋っているのに、目をずっと合わせて聞いてくれている。それが先生の仕事だと分かっていても、壁に話しているよりかは心が満たされる。でもあまりにも真っ直ぐ過ぎる瞳に耐えきれず、目をそらして口をつぐんだ。

 先生は、手元の紙に視線を落としてから、また直ぐ、私の目を見た。言葉を発せられるまであと数秒ほど。口を開いたのと同時に世界は暗転した。

[黒]

 瞬きをひとつ。
 また、先生と対面する形で座っていたのだ。
 眠っていたのか、それとも、気が付かないうちに次のカウンセリングに来ていたのか。どちらにせよ、前回の記憶が途中で途切れているのには変わりない。頭が重い。

 先生は相変わらず、今日も曇っていますね、なんて何気ない会話を試みている。カレンダーには、今日の日付だと思われる所まで丸の印がされている。少なくとも、前回は問題なく事を終えて、今回は次の週なのだと理解した。改めて聞く必要を感じず、最初の疑念は咳払いと共に捨てる。

「みんな当たり前のように受け入れてますが、私には理解しかねるのです」
 分からないと拒絶しているわけではないのだが。これはもう、自分の本質というか、人間性の問題であるのだ。

「いいえ。言ってないだけで本当はみんな、隕石が今日降ってくるって思ってるかもしれない」
 私と同じで、と付け加えて目線を下げる。可能性の話は広すぎてキリがない。「絶対」が無い世界で、ただ唯一はいわゆる例外なのである。

 何か言われる前に、自分で言葉を続けた。

「馬鹿みたいって思うでしょう?それでも、いいじゃないですか。こんな時くらい」
 自分で言っていて、悲しみが心に溜まっていくようだ。
 先生は黙って首を振って、またあの目で見ている。分かっている。否定されないことも、解決策を持ち合わせてないことも。先生はただの補佐に過ぎないことを、私は知っている。
 じわじわと目の前が黒く塗りつぶされていく。意識が途切れる手前で、声が聞こえた気がした。

[黒]

 再び視界が開けたと思えば、変わらずの人が目の前に座っていた。無機質な時計の針の音がする。瞬きをふたつ。

 また記憶は無いが、特に先生の動揺も見られないので、やはり私がおかしいのだと納得する。今日は雨が降っていましたね、なんて世間話が交わされる。頭はずっと重いままだ。

「全ては時間が無いという事実から。そこが始点になって、心を侵食して苦しめるのです」

 先生が両手で持つバインダーには、未だ真っ白な紙が張り付いている。

 そうなんですね、と受け止められ、目をじっと見つめられる。心を読まれているようで、後ろめたい気持ちを抱く。

 今更になって、初回の最後に先生が聞いた質問を思い出した。

「乗り越えた世界で貴女は何をしていたいですか?」

 目の前に居る先生と重なって部屋に響く。困ったような眉で私を見るものだから、何故だと問いたくなる。泣きたいのは私だ。焦燥感と絶望にも似た嘆きを抱いて過ごす日々は、もう懲り懲りなのだ。

 こんな時、どんな表情をするのが正解なのだろうと思って、笑ってみせる。きっと、目を細めただけだっただろうけど。

 今更なのだ。ずっと前から気づいていたのに、何も変われなかったから、現実がもう目の前にあるというだけだ。

「……そうですね。でもですね、もう隕石が落ちてしまうのです」

 目の前に迫る脅威は私にしか見えない。
 遣る瀬無い気持ちは、目の端からゆっくりと零れていった。
 


 静まり返る部屋の中。
 いつものように目の前の少女は、消えてしまった。霧のように、亡霊のように。手元に目を落としながら、彼女とのカウンセリングを思い出す。

「またお話出来たらなって、私は思いますよ」
 いつか言った言葉を、誰も居なくなった椅子にかける。次会えるかわからない幻影少女の選択を、この場で待つことしかできない。
 二つの椅子の片方だけが、今は埋まっている。

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