ブレイクスルー(できない)
おはようございます、こんにちは、おやすみなさい(?)
液晶画面を見ているあなたの時間は分かりませんが、画面の向こうから岡崎が失礼します。お目汚し申し訳ございません。でもこんなくだらない記事読みにきているあなたももうこちら側です。同罪です(黙れ)。
さて、今回の記事は、どういう過程で人間は与えられた環境で成長できるのかを僕なりに考察したので簡潔に結果をご報告させていただきたい次第であり、ごく簡潔に、不要な記述を削いで我が研究結果を上梓したいと思いますゆえ、なにとぞ足など適当に崩していただいてお寛ぎになって聞いてください。
本noteは四部構成で、第一章・RP(役割)について、第二章・人としての立派さについて、第三章・環境変化について、第四章・実際の習慣やライフスタイルの話の四つの観点からわれわれのブレイクスルーとそれを促進し疎外する要因についてバカたる僕が考えたることを議論します。ただのそこらへんの陰気な大学生がうじうじ考えて日記に書いてるような内容だと思っていただければ問題ありません。
こんなことを論じても何にもなりませんし、大体誰に伝えたいのかと問われれば自分の備忘録としてのメモという意味以外には偶然読んでくれているあなたの心中に何かしらの面白い変化が起こってともすれば振り返りに役立ててもらえればいいなと思っているくらいで、まさか世の自己啓発本を否定して自分なりの解釈を示そうというものでもないし、まさか自分の考えが絶対的に正しいと思っているわけでもないし、まさか世の伸び悩む人々は須らく僕の考察を見て我が振り直して精進してくださいという気も無いです。
僕の書く文章なんてつまらないし、稚拙だし、ただの感情の奔出だし、論理的でも無ければ推敲もされていない生文ですが、まあ書いていて面白いしいいか、ということで現状変更や現状打破(=ブレイクスルー)、平穏の回復やもっと狭義には成長、躍進、協力、協和といった人間関係における「理想」に近づくための忍耐や努力、主張や妥協の使いどころについての考察を始めていきます。
第一章・RP編
期待、責任、役割、担うこと、負うこと、押し付けあうこと
言うまでもない事ですが、人は互いに一定の役割を押し付けあって生きています。こんなことを書いている理由は、例えば家族では、リーダーが必要で、仲間内では発言力の強いボス猿が必要だからです。そういった役割が欠けると、集団はとんでもない道を選びだして破滅します。そうなった経験はないですが、危ういな、と思ったことはあります。
つまりですね、できる奴とできない奴がいて、できない奴ができる奴になったり、その逆というのは、非常に難しいのです。当然じゃないかって?いやいや。大切なのは、どんな社会でも若者とか新人には成長や世代交代が期待されるという事なのです。それって、ボスが間違っていても、その周囲の人々が正しく導く力を持っていても、その集団は厳しい障害を乗り越えなければいけないという事です。要は核家族のお父さんが認知症になっちゃったら、母子は二つの課題を負い、一つ目に生活を成り立たせなければいけないけど、二つ目の新たなボスをしつらえるというのが非常に難しい課題になってくるという事なんです。
この権力世代交代は、同世代間でも起こります。教室や職場の中で優秀で、いつもリーダーを担っている奴を超えるには、そいつと同等の実力を身に着けるだけでは不十分なのです。リーダーになるためには、その座に収まらなければいけない。何を言っているのか、と思いますか。分かりませんか。リーダーたる力や知識が身についたら、旧リーダーの無力を証明しつつ自らがその知識をリーダーとして行使していくための儀式が必要になります。リーダーが力を失うのはひっそりですが、新たなリーダーが生まれるときには闘いが起こります。
個人として力を身に着けることももちろん必要です。自立した力というのは非常に扱いにくいコンセプトです。一つの場所で十分やっていけるだけの絶対的な能力としての力と、色々な場所に流動的に対応していけるだけの相対的な対応力・柔軟性と、ロジカルに物事を考えていくという意味での言葉と理論の力の三つ巴を一度に習得しなければいけません。それだけではなくそれを成立させるための若さ・体力・時間の余裕・精神的度量なども含めて考えなければいけないので難しいものです。
そういう諸々を考え合わせると、僕は時々この世界でロールプレイの御人形遊びのパーツとして遊ばれているような気分になります。人々の考え、欲望、希望、愚痴、論理に耳を傾けるのが好きなのですが、それぞれの意思を聞いて、ある程度論理的に、ある程度適当に求められる役割を切り替えていく分人的なモノの存在を自分に感じるのです。
例えば実家と我が家のお葬式のときの関係性、と言えば伝わりますか。私は20年前に結婚するときに実家を出たから、今では1年に1度だけ帰る実家があり、両親と残りの2兄弟は我が家とは別家族である。親が死んだときどんな葬儀にしたいか決めるのは実家を構成する人々であり、私は実家の一部でもあり、でも実家から出てきた今は我が家の一員だから実家とは別の独立した存在である、みたいな。
色んな人間の輪っかがあって、実家では一番論理的に物事を考えられる末っ子だったんだけれども、今の我が家では家事やなんだかんだはこなす母をやってるけど一家の大黒柱であるお父さんがいちばんのリーダーとして物事を決めていて自分は少しだらしない存在として甘えた生き方をしているようなイメージです。そういう場合、自分に求められている役割を脱却することは非常に難しい。なぜなら、環境がそういった存在を求めているから。そして、より重要な役割を担える力が身につくことはない。なぜなら、人は求められる役割をこなしつつ周囲に責任や役割を押し付けていて、他人のロールを自分が奪うことはできないから。
だから、人形遊びのように自分の役が定まってしまえば、それを脱ぎ捨てることは困難だ。現状の望まれない変更は難しい。現状打破は、どのようにしてできるのかしらね。
第二章・人徳編
きちんとしようぜ、とはどういうことか
どの場にも、というのは家庭においても、職場においても、学校においても、自治体においても、国家においても、トップパフォーマンスというか、ハイパフォーマンスを示せる人はいる。そういう人はとんでもなく優秀で、まるで優秀という言葉の定義かのように求められる仕事をこなし、それだけではなくその空間をよりよく回すための改善案であったり革新的なアイデアであったりを自主的に回していける。
ずるい。いや、なんでもない。
そうではなくて、そういう人は、大抵自分が「きちんとしている」という事を認識している。トップを高く設定し、ストイックに自分の設定した目標にコミットしていくことで自分に厳しく当たり自己満足を得ている優れた人間である。そういう人は部活にもいたし、会社にもいるし、どこにでもいる。
極論を挙げるならば一番幼いころにおもちゃの積み木でお城を作って親に褒められ、その家庭の中で最も優秀な存在として持て囃される乳幼児だってそういう存在とみなして問題ない。問題が生じるのなら、幼児の意識の芽生えの段階が大人とは違うというところになると思うのだが、ここではそれはさして問題にならない。
何故優秀だった僕は今では優秀ではないどころかこんなに愚かで何もできない存在として生きていかなければいけないのか。そしてなぜ僕はイギリスなどという完全にアウェーの地で本当に一人で戦っているのか。日本に帰りたい。あっといけない、心の声が…。
横道にそれるのはそろそろ終わりにして、本題に戻ると、一定の空間の中で認められるだけの働きをするというのはあるルールを学ぶとそんなに難しい事ではなくなってくるのである。それは、空気を読むこと、それでいて遠慮しないこと、その空間で特有の言葉遣いに気を付けること、気長にやることである。
もう少し詳しく考えると、その場でいとも簡単にほかの人にはできないくらいのハイパフォーマンスを継続的に出せる人というのは、ほかの人よりも良くその場のルールを理解し、利用している人であるという事ができる。本当だよ。だって、結構成功もして、結構失敗もしてきた、いろんな場所で生きてきた僕がそう思うから。別に自分自身自分の土俵のルールを熟知しているわけではない。ただ、色々な経験をしてきた人々を見てきて、そういう人の話を聞いて来て、そう思うのだ。
「その場のルール」とかいうふわっとした言葉であるが、これについて少し詳しく書いておきたい。少し書いておきたいのだが、ぶっ続けで書いて来て、少し頭が疲れてきた。でも頑張って、今考えている二章先の内容を忘れないようにここに書くことをまとめよう。なるべく短く。
その場のルールは、人間関係によって生み出されるだけではなく、お金や期日、要求される技術や信頼度、人に与える影響などを総じて縛る規定事項の事で、暗黙の了解としてそこに存在している。きっちりと言及するなら、そこに住む人々が暗黙の裡に了解している社会との契約の体系、つまり黙契とでもいうべきものだが、ここではそれをその場のルールと表現している。よくお笑いである、「もっとやれ」「それはさすがにだめだろ、おもんない」みたいなのもその場のルールではなかろうか。掟破りも無知ベースだと幼稚に見えてつまんないのである。なので、その空間を支配しているゲームのルールをつかむことに時間を使うべきである。
「優秀さ」とは何か。それは余計なことをやらずに、必要なことだけに全力を尽くし、その目標をより良い形で達成するためだけに片時も脳味噌を休まずに働き続けるもはや献身的なかかわり方の事である。
特に詳しく書かなくても分かると思う。ハイ、じゃあ今日の議題はこれです、皆さん案を出してください、というときに「これで行きましょう。必要な工程と準備はこれで、気になる条件はこれで、乗り越える課題はこうで」みたいなことを言えるヤツは、往々にして結構前からずっとそればかり考えているので、強い。だからそういうやつとやりあうには、あまり正面から相手にせず、その場のルールを活用して攻略していくのが大事なのだと思う。いや活用すると言っても、複雑なことではなく、その場のルールをよく読むという事だけで、何か改善、打破の光明が見えてくるはずだ。それがブレイクスルーにつながるのではないか、と気がする。燻っている同志諸君よ。
第三章・土俵編
人智を超えてくんなというエゴについて、など
人は、色々な土俵で戦っている。二足の草鞋で二つの場所で戦わなければいけない人もいる。僕のように向う見ずに全く新たな、知り合いの一切いない環境に飛び込んでやけどをするバカもいる。そういういろいろな土俵で戦う人々が混ざり合う社会で、どういう風に戦っていくのがいちばん甘えが少なくて良しとされるのか。
ときどき、こっちは論理的に戦ってやってんのに、その論理を全く意味不明な角度からぶち破ってくるアホンダラがいる。そういうアホンダラはこの世を早々に退場していただきたいのだが、そうもいかないか。たぶん僕が陰キャだから嫌いなだけで、そういう人は一般に突破力を持った変革者(disruptor)と呼ばれ歓迎される人種だ。
自分の責任範疇を超えて口出ししてきて空気が悪くなる場面も多々あるし、土俵じゃないのに戦わなければいけなくてすごく居心地の悪い思いをすることもある。他人のふんどしでとる相撲で勝ちを求められることもあるし、自分の土俵で戦っているのに論理の通じないトンデモ意見をブチ通そうとしてくる輩もそれなりにいる。
そうだ。論理とは一応僕たちに与えられた一つの最適な解法である。ただ、多くの人間関係は論理的ではないし、それほど心地のいい良い関係というのも珍しい。僕なりに考える論理が武器として通用する土俵はどんなところか、という考察をしておく。
論理が最も力を持つのは、人間関係があまり良好ではないか、人間関係があまり発達していないか、それとも真逆でほぼ完ぺきに統制の取れた上下水平の人間関係が出来上がっている場で限定的に作用するかである。普通の人間関係が存在する場において論理は大体無力である。論理的な奴というのは嫌われるし、生きるにしてもある程度までは論理で突き通せるが絶対に社会で生きていると論理という事実と推論の世界にひずみが生じ限界がやってくる。
第一章のRP編で少し述べたが、人々は互いにキャラと役割、それに伴って仕事を互いに演じさせて生きている。論理的なキャラはほかの人の恩情に支えられて生きているのだ。感情で生きている人は気に入らない人がいれば気に入らない、で終わりだが、感情で生きている人が論理的な人の弱点を見つけると、執拗にそれを嫌悪しがちなのだ。当たり前である。完璧な人間なんていないのに論理的な人間は完璧な論理を隠れ蓑に自分のだらしなさを隠して生きているのだからそうなるのである。
だから、自分の限界、そしてその自分が戦う土俵をじっくり選定してその境界を措定して境界線の中で井の中の蛙になる(ブレイクスルーを目指す)というのも大切な戦略なのである。だから(?)僕は日本に戻るのはネガティブなことだと思わない。
そして土俵を自分で選ぶという事は大体身勝手なことである。そして身勝手なことには代償が伴われなければならない。つまり、理不尽な強者に時々己の全力を破られそれまでの努力を踏みにじられたような気になるのである。
置かれた場所で咲きましょう、あなたの闘う土俵を決めましょう、って星の王子さまに出てくる学者さんみたいに自分でその惑星は自分のものと決めてしまうと、時々星の王子さまのようなガチの論理的に処理できないほどの実力者が自分の狭い世界の価値観を破りにやってくる。そこで周囲と自分を比較して正気に戻りとても落ち込むというようなことが起こりがちになる。
だから、自分の闘う場所を決めて、その場所を支配するルールを観察して論理的に場を攻略していくやり方には、全く完ぺきとは言えないそういう弱点があることを認識していなければいけない。助けてくれる友人がいる場合は良いが、全く繋がりのない新しい世界で戦わなればいけない場合はなおさらだ。人は繋がりを持つことができるが、自分の身一つで戦うのはなかなかの難易度を伴う。だからこそ強くなるというものだし、可愛い子には旅をさせよとはよく言うけれど、本当はかわいい子は部屋に閉じ込めてぬくぬく育てるのがいちばんだ、それができるならば。
実力のない僕みたいなやつはそういうコスい手を使っていく必要があるからそうしている。僕なんかは恵まれた家庭に生まれたから、いきなりイギリスにきて環境の厳しさが上がった気がしている。自分語りで申し訳ないが、甘い環境で育ってきて今厳しい環境にさらされている僕というやつの存在が示すのは、環境や空間にはそこで上手くやっていくための難易度が存在する。
簡単にうまくやれる環境というのは、大抵親や友人、親戚などの都合で、金銭面、知識面、ノウハウ面などでやってはいけないこと、バンバンやっていくべきことなどが比較的はっきりしている環境だ。こういった環境では初心者でも上級者を超えやすい。一方、貧乏で狭くて自己管理をしなければいけない環境でほかの負担もかかる環境だと、それだけで難しいタスクが増えるのに、それに加えて才能がないだとか当てはまりもしない自己批判に悩まされ、励ましてくれる人もいない孤独な戦いの道になる。
しかもそれは理不尽である。自分には才能がないかもしれない。才能があるあいつはあんなに理不尽に周囲に恵まれて評価されている。どこまでやればいいのか。なんで自分はこんなことをやっているのか。
理不尽に打ち勝つには、根気よくやるのである。折れずにやる。決めた目標を裏切らない。狂ったように取りつかれたようにやる。これしかないかもしれないと思いつつ、僕も頑張ろうと思う。多分これ以外の答えはないだろう。あったら教えてほしい。一番絶望的な瞬間に、次は大丈夫、これでどん底を経験したぞ、と前を向ける精神がブレイクスルーにつながる、と信じている。
第四章・実際編
吐き出し続けろ、という一番つらいこと
一番これらの考え事を実践していくうえで大変だと思うのは、色々なアウトプット、それはその人がどんな目標に挑戦するのかによるとは思うのだが、それをオリジナリティある形で、ルールを順守しつつアウトプットし続けなければいけないという事だ。あまりうまく言葉にできないから少し待ってくれと言っていくらでも待ってもらえるのは趣味の世界であって、本気の世界、仕事の世界ではそのようなことは許されない。
自分の満足いく表現になっていなくても言葉や行動で自分のスタンス、意見を示すことが要求され、それが最終的なスタンスとして評価される。それは楽なことではない。さらに、自分のあまりやりたくないことも興味のないテーマについての言動もそのままで評価されてしまうことから、かなりの場合好きで入った世界であっても嫌いになって脱落してしまう人が多い。これは学問でも趣味でもスポーツでもそうで、ただその限りでないのが一生続いていく職業選択だ。仕事は寧ろ嫌いな部分も含めて好きになるというか習慣の一部として慣れなければいけない。
初めは好きという気持ちで始まっても、それが得意になり誇りになるためには、その行為を半ば作業的に生活に組み込み、寝ても起きても向き合い、一日も休まずに続けていく覚悟が必要となる。そしてそれはその内容が高度になっていけばいくほど困難を極めていく。
自分の天職と向き合い、自分の得手不得手と向き合い、欠点を補い長所を伸ばし、自分の言動と向き合っていくのは人間の一生の定めであり、その優劣に老いも若きも関係ないのかもしれない。
そして悩み。どうしようもないし全力で贖罪していきたい
人は確実に悩みを持つ。これは自分の能力にかかわる部分について、誰しもが経験する辛くて楽しくてでも辛いプロセスではないかと思う。普通、悩んでいるという状況にいるときは様々な失敗や目標を達成できない状態が続くので、メンタルが擦り減っていくが、ここで大切なのは、何よりも、後悔しない選択肢を取るという事だ。
僕自身がイギリスと日本で生活していて痛感するが人はいつまでも恵まれた環境にいられるわけではない。人は与えられた環境から出ることを望みがちだが、環境を与えられているというのは見方によっては幸せなことなのだ。
使える資金がある、通える場所がある、食べられる食材がある、受けられる医療、恩恵を受けられるライフライン等のインフラがある、羽を伸ばせる施設や娯楽、観光先がある、友達と話せる、これらの環境をうまく利用するというかその大切さを身に感じるというのは大事なことで、何故ならそれ以上を望んでも手に入らないが、それ以下の状態から見ればそこは十分恵まれている場だからである。
それは一度自分で欠乏を経験しないと分からない。可処分所得というか、一日の中で使える時間というか、そういうものを寄り道せずに熱中して何に使うか、という事が大切なのだと僕はイギリス留学生活で学びつつある。
これを踏まえて僕が大学生活の最終年に本気で取り組もうと思っていることは国際関係学・国際法学とバイオリンの練習である。どちらも、日本にいる夏休みだからこそできることがある。国際法学のテキストは英語だと煩雑すぎるため日本の図書館や書店で手に入れざるを得ない。英語だとそれほどたくさんのテキストを読めない。イギリスの大学量は壁が薄すぎてサイレンとバイオリンを使っているので、生のバイオリンの自分の弾いた音を聴ける実家でバイオリンの様々なスケールやアルペッジョの練習、実際の練習曲や協奏曲の練習をしたい。
これらの切実な悩みは、イギリスと日本の差、というよりも、恵まれた環境への切望という形で僕の悩みになった。だからこそ、与えられたリソースをフルで使い切っていくという感覚の大事さを感じている。例えるならば、ドリンクバーで元を取ろうとする小学生のような気持ちかも知れない。これはお金についても、知識についても、時間についても、体力についても、人生についてもすべてそうである。
そしてもう一つ。これをもってこの文章のまとめとしようと思うが、僕は人生はひとつの罪について懺悔し、それを悔い改めて少しでも良い明日を担っていく過程だと思う。これはキリスト教でいう原罪だと思うし、仏教でいう仏を信じる心だと思う。
様々な愚かな自分と向き合って、少しでもましな明日を、今日をという気持ちで生きていくという意味では、僕たちみんなが精進する僧侶と同じように毎日の繰り返しをしているし、それに何のけれんみもなくて良いはずだ。
僕たちは雑草のような、河原の小石のような存在であって、もともと優れた人間などそうそう存在しない。それでも一握りの人間が優れた人間になっていくのは、つかめるチャンスをつかんでいる、というような現実もあるが、それと同時に、毎日を一生懸命生き、与えられた材料をうまく人生という調理場で調理し、悔いの残らない人生を送り、自分の人生の目標に向き合っているという事なのだろうと思う。
人に与えられている資源というのは、ひとつは金である。もう一つは時間で、もう一つは知識、もう一つは人脈、もう一つは才能だと思う。それぞれについての解説はしないが、分かりやすく知識と才能の違いについてメモしておく。
才能は、周囲からスキルを認められて、褒められるというプロセスが必ず必要になる。承認が一切なくて、本人がそれを力として延ばす意識がなければそれは才能とは呼ばない。才能は周囲に見いだされて始めて才能である。これは僕の言葉であるが。一方知識は、法知識、文学や漫画の知識、なんでもいいが、事実や真実、命題やセリフ、議論などすべてがその対象になるし、しばしばそういった知識は後々権力と結びついていく。ここでいう権力は別に国家権力とか公権力に限らず、家族の中での力関係や部活の中での序列みたいな小さなコミュニティーにおける権力にも通じる。別に単に力と言っても差し支えない。
厳密には人によって解釈は分かれるだろうが、人には家族や友人、先輩といった垂直・水平の人間関係の中で与えらえた資源を運用している、というのは共通の認識なのではないだろうか。管理が上手い人も下手な人もいるし、ひとつの運用がとびぬけてうまい人もいる。かくいう自分は大抵微妙なもんだし、なんでこんなことを考えるようになったのかよくわからない。ただこの考察は多分正しいだろうという確信めいたものがある。
【資源】を最高効率で運用する、つまり同量資源を与えられている人を超えるには、習慣の力を借りることなのではないかとさすがに思うようになってきた。習慣づけずに瞬発的な行動力でタスクをこなしていく人もいるが、僕のような凡人が120%の力を発揮する、つまりブレイクスルーを起こすには、習慣の力で火事場の馬鹿力を超える能力を発揮していくことが一つの方法となると思う。
なぜかというと、簡単な話で、習慣として身についている力を発揮するという事は、その力が時間性を超越して出ているという事だからである。長い時間をかけて考え、悩み、取り組んできていることというのは、一度しか取り組んでいないこと、もしくは断続的に取り組んでいること、もしくはそういう取り組み方をしていたライバルと比べて広い時間性を持った能力に育つからである。
どんな概念にも時間性と空間性という考え方を併せて考えることが大事で、特に成長や能力と言った眉唾ものになりがちな話は、長い時間をかけて鍛錬を繰り返すことで能力を育てるというような基礎的なことが大抵大事だったりするのだ。まあ僕はブレイクスルーを目指してお勉強とバイオリンと就職活動とブログ執筆活動を頑張りますよ、という話ではあるのですが。
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