【観劇メモ】二期会《フィデリオ》

東京二期会オペラ劇場《フィデリオ》
2020年9月5日(土)@新国立劇場オペラパレス
指揮:大植英次 演出:深作健太

新国オペラパレス、半年ぶりのオペラ公演

COVID-19拡大の情勢下、本番はおろか稽古すらいつ中止になるかわからない中で、二期会の《フィデリオ》は開幕した。運営、制作、出演者、それぞれの立場で様々な困難や挑戦があっただろうことを思うと、まずは公演の実現を心から喜びたい。

特に印象的だった2幕フィナーレの自由と勝利の音楽は、公演の実現に傾けられたであろう膨大なエネルギーを象徴しているかのようだった。レオノーレとフロレスタンが自由を勝ち取ったその瞬間、壁をモチーフにした重々しい舞台装置がすべて取り除かれ、オーケストラピットと舞台を隔てていた紗幕が上がり、舞台上のみならず客席にも光が降り注ぐ。舞台袖の影歌に徹していた合唱団が、4面舞台の奥舞台いっぱいに距離をとりながら並び、劇場をベートーヴェンの圧倒的なハ長調の渦に巻き込んでゆく。密を避けるために通常よりもかなり浅く設定されたオーケストラピットも、フィナーレのフォルティッシモの熱量に一役買っていただろう。

紗幕の導入や合唱の影歌化といった感染症対策を、演出上の必然に昇華しようとした深作演出だったにも関わらず、オペラのラストで深作は、合唱団がマスクをしていたということを呆気なく曝け出し、密を避けるために空席だらけになっている客席を客電で可視化させ、本来は客席に見せることのない舞台上のバミリや舞台袖の設備までも剝き出しにする、という戦略を採った。最後の数分間で、公演を支えるあらゆる要素が表沙汰になり、嘘偽りの無い現状が劇場中に現れるという仕掛けは、劇中世界と現実世界の間にある「壁」を取り去らうという意味で本演出のクライマックスであり、その見せ方にいくらかの戸惑いを感じたものの、舞台の作り手と受け手がこの危機的な時代状況を共有しているというメッセージとしてであれば、好意的に受け止めることができた。

…しかし、しかし、である。終わり良ければ総て良し、では済まされない部分もある。我々はこの舞台の達成と不足を、もう少し慎重に見極める必要がある。

今回の演出は、人々を分断し抑圧する「壁」をモーチフに、自由を獲得するための人間の闘争を描き出そうとするものであった。アウシュビッツの鉄条網、ベルリンの壁、パレスチナの分離壁、トランプのアメリカ国境の壁、と二次大戦以後の人類史に現れた様々な「壁」を各シーンで登場させ、「壁」による分断と、自由のための闘争に、普遍性を見出そうとする。物語の時系列と戦後史の流れとが並置され、舞台装置も各時代の壁が表現されるのである。時代が移り変わるという仕掛けを明確に伝えるために、映像やテクストがドキュメンタリータッチに多く引用され、舞台と客席を隔てる紗幕に映し出される。

様々な分断や格差が社会に大きな影を落としている現在の時代状況を考えると、《フィデリオ》の主題である自由Freiheitに、分断の象徴としての「壁」を対置させるアイディアそれ自体はアクチュアルなものであり、《フィデリオ》の現代的な解釈を構築する契機になりうるだろう。しかし、そのために参照された史実の取扱いや、最終的に結実した表現として違和感や疑問を覚える点も少なくなかった。


カタログ的な引用の危うさ

今回の演出でまず賛否が分かれそうな点は、紗幕に次々と映し出される映像やテクストの引用だろう。序曲の開始とともに映し出されるポール・ニザンの一節や、救済のファンファーレと紐づけられたドラクロワの自由の女神に始まり、平塚らいてうやジョージ・H・ブッシュまで、興味深い引用がなされる。音楽や歌詞に手を入れられない以上、読み替えのコンセプトを表現するために映像やテクストを用いることは、戦略的に有効なことであるが、この舞台ではその数があまりに多かったのだ。好意的に捉えるのであれば、それらは演出コンセプトをわかりやすく伝える役割を果たしたし、また、少し深読みするのであれば、情報量やイメージを過剰にすることで、読み替えの恣意性を埋没させる効果を狙ったのかもしれないが、都合よいイメージやテクストが予定調和的に乱発されたという印象も拭えない。観客の想像力に委ねるべき部分を、そうしたイメージやテクストが瞬時に、そして半ば強制的に埋めてしまうのだ。自由をコンセプトにしたはずの舞台にしては、あまりにも余白が少なすぎるのではないか、というのが率直な感想である。

私はこの手法に、歴史やテクストを「カタログ」的に扱うことの危うさがあると思う。今回の演出は、《フィデリオ》の物語を特定の時代やひとつの史実に読替えるというものではなく、場面ごとに異なる時代を重ね合わせようとする点で新しいものであった。深作のプログラムノートから察するに、《フィデリオ》が4つの異なる性格の音楽によってある意味「バラバラ」に構成されているという分析が、そのそれぞれに歴史上の4つの異なる「壁」を重ね合わせるアイディアの源泉だったと考えられる。しかし、各時代の「壁」にまつわる歴史と《フィデリオ》の各シーンとが整合するとは必ずしも言えず、序曲のパントマイム劇によって比較的丁寧に描きだされるアウシュビッツについては見事に《フィデリオ》の物語と接続させられていたように思うが、その後は、4つの「壁」のエピソードと《フィデリオ》の物語とが分離したまま別々に進行するというレベルに留まっていた。各時代に生きていたであろう「レオノーレ的存在」「フロレスタン的存在」を描出することで、75年の歴史を縦断するというアイディアは良いとしても(ちなみに、昨年ウィーンで初演された《オーランドー》を彷彿とさせた)、説明調の映像を用いながら「こういう歴史がありましたよね」と矢継ぎ早に語り掛けてくる舞台は、「壁による悲劇のカタログ」のようなものをぱらぱらと見せられているような気分になる。わかりやすいイメージとキャプションが羅列されるだけのカタログ的表現によって、ひとつひとつの史実が持つ重みが隠蔽・矮小化されてしまうのだ。

もちろん、物語と現代史をドライブさせるというコンセプトそのものは面白いし、ベートーヴェンの《フィデリオ》だからこそ普遍的な価値への挑戦が可能であったともいえる。また、様々な鑑賞水準の観客がいる中で、映像や文字の多用が一定の効果をあげていることは否定しない(少なすぎれば、多くの観客が置いてけぼりになっただろう)。しかし、歴史やテクストをカタログ的に扱う手法は、わかりやすさが故に、ともすれば観客の自由を狭め想像力を奪ってしまう危うさと表裏一体である。加えて、このアイディアと《フィデリオ》の物語との非調和が、参照された史実や引用されたイメージ・テクストの「借りモノ」感を強めてしまい、ときおり「お寒い」「可笑しい」という感想を抱かずにはいられなかった。深作演出の最大の難点を挙げるとすれば、このような、歴史やイメージ・テクストへのカタログ的で安易な手つきである。


とはいえ、個人的には久々のオペラ鑑賞を純粋に楽しむことができた。保守的な演出が志向されがちな日本という土壌において、型破りでチャレンジングな舞台が実現したということは(その内容の当否はさておき)歓迎すべきことだと思う(であるからこそ、忖度の無い正面からの批評が不可欠だ)。また、COVID-19の情勢下だからこそ実現したであろうアイディアが舞台に盛り込まれた点や、深作とコンヴィチュニーのオンライン対談など劇場外でも楽しめる企画が用意された点など、舞台芸術が置かれた状況に対して誠実かつ果敢に応答しようとする姿には感銘を受けた。

ところで、新国立劇場で見る《フィデリオ》と言えば、2年前にカタリーナ・ワーグナーが演出した劇場主催公演も記憶に新しい。カタリーナが用意したスキャンダラスな結末に、ブラヴォーとブーイングが入り乱れるカーテンコールであったが、今日の《フィデリオ》は感染症対策のため掛け声は禁止。少なくない観客の心の中ではブーイングが鳴っていたのかもしれないが、久々のオペラ体験を用意してくれたカンパニーと出演者・関係者に向けて、そして生誕250周年を迎えるベートーヴェンの圧倒的な音楽に向けて、拍手がしばらく鳴りやまなかったことを付け加えておきたい。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?