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『九重』総解説・附録

総解説のついで、「豈」66号に書いた「生存報告系個人誌『九重』の真実」をノーカットで転載します。
※2023年6月時点での記事のため、5号内容には触れていません

生存報告系個人誌『九重』の真実

「九重」は2021年に創刊した佐藤りえの個人誌です。B6版オフセット印刷、ページ数は内容に応じて30ページ弱から100ページぐらいまで、号によってまちまちです。各号数人のゲストを招いて作品・文章を寄せていただいています。これまで小津夜景・笠井亞子・戸田響子・岡田幸生・近恵・今泉康弘・伴風花(敬称略)の各氏にご執筆いただきました。発行人のパートは俳句・短歌作品と散文「むさしの逍遙」、黒猫ニンジャと人間ペーターの漫画「PETER & NINJA」などを載せています。「むさしの逍遙」は題のとおり、在住している武蔵野近辺をほっつき歩いた記録や、歩きながら考えたことを記しています。これまで飯能・秩父・高尾山などへ赴きました。

「そうだ、個人誌をつくろう」と思い立ちました、京へ赴くかのように。ながく短詩型に携わっていると、おのずとたくさんのメディアに出会います。個人誌だったり、同人誌だったり、結社誌だったり、専門誌だったり。坪内祐三さんではありませんが、多くの雑誌がわたしのからだを通り過ぎていきました。三尺玉のようにどかんと花開くいちどきりの雑誌もあれば、こつこつと号数を重ねるものもあります。参加者としてさまざまに関わったものもありました。
 そんななか、「自分ひとりで何かをやろう」と考えたことは全くありませんでした。なぜか。まず、面倒だから。同人誌など、レイアウトや印刷の手配を担当することがあったり、本業もそれに類することをやっているので、その手間についてはありすぎるほどに実感があります。生きてるだけで精一杯、積極的にさらにタスクを増やすような気持ちは、長いこと起きませんでした。経済的な負荷もあります。それから、定期的にある程度の分量のなにかを書き示すスタミナにも不安がありました。世の中には黙っていても毎日何かを書かずにはおれないひとびとがいるようですが(作家の日記などを読んでいると、出版する日記の他に人には見せない日記が倍量ぐらいある、なんて書いてある。正気か)、自分はどうもそういうタイプではない気がします。やっつけ、勢いで何か書くと後で死ぬほど後悔する、ということも多少は身に覚えがある。口から出たものを順繰りに開陳する、みたいな芸風はまったく向いていない自覚があるし、そうしたい欲求もありません。SNSなどでもどちらかといえば無口で、だじゃれを言っているか、猫や食べ物の写真に控えめに「いいね!」と反応するのがせいぜいです。

 ここまで「やらない理由」を縷縷述べてきたのに、なぜ思いつきを実行に移すことになったのか。まず単純に、いいな、とおもうメディアに接する機会が増えたことがあります。例えば西原天気・笠井亞子両氏による「はがきハイク」、故秦夕美氏の「GA」、高橋修宏氏の「五七五」など。特に「GA」には感銘を受けました。身近の草花が表紙を飾り(毎号別な植物で、一度も同じものになったことがない、とのこと)、俳句と短歌、蕪村にまつわる小文とエッセイが、定形封筒に収まるコンパクトな紙面に詰まっていました。
 個人誌のよいところを目の当たりにしました。第一に小回りのきくサイズ感、読み切れる分量、作りたい時に、さっと出せること。大仰なことでなく、送る側も受け取る側も、過度に緊張を強いられることなく、受け渡しが気軽である。こうした特徴に、遅まきながら、作り手としてのチャンネルがかちりと合いました。同人誌のように混乱しながら複数意見を集約する必要はなく(ゲストは丁重にお願いしていますが)、コンテンツもページも増減は自由自在です。印刷費が高騰する昨今、相談が必要なのは自分の懐具合のみ。
 第二に、なにか漠然と、「書いて送る」ことができる場所を作っておきたい気がした、というのもあります。句集を作る、同人誌を立ち上げる、といった大仕事は、労力も時間も多大に必要とされます。その中間で、あるいは日常的なタスクのなかで、書きたいことができたときに、そっと記せるところがあったらいいんじゃないか。
 第三にはこれが生存報告の一端である、ということが挙げられます。中年の坂を越え、手紙、葉書に「お元気ですか」と書くことが、社交辞令でなく本気の確認になりつつあります。もはや年賀状や暑中見舞は、友人知己に対しての生きてる報告を担っているわけです。しかし年賀状でもクリスマスカードでもいいのですが、そこに「最近の俳句は~」と綴るのも、ちょっとどうかと思われます(やったことあるけど)。そういう雑談(?)を本編に譲り、編集後記に時候の挨拶を兼ねた近況報告を偲ばせています。創刊時、軽い気持ちでつぶやいた「生存報告系個人誌」というフレーズが一人歩きしてしまい、なにか特殊なことが書かれているのでは…?と身構えられることもありますが、ごく普通の文芸誌です、拍子抜けするほどに。〝少なくとも生きてます〟という炙り出しメッセージを込めて、ぼちぼち発行しています。

 インターネットを利用すれば、もっと即時性のあるやりとりが、いろいろな手段で可能でしょう。そこを天邪鬼に、わざわざ紙でのやりとりをする、この時差のある交流が癖になる。かまびすしい情報の中をざくざく渡り歩き、選別そのものに時間を取られ、気のないものについ目を奪われ、お目当てのものに真に集中することが日に日に難しくなっている、これが情報社会の偽らざる現状なのではないでしょうか。書いているだけでどっと疲れに襲われます。冊子はいつ、どこで読まれてもいいのです。今日でも、一年後でも、涼しい部屋の中でも、路傍にバスを待つ間でも。
 子規の「七草集」しかり、寺山修司の「牧羊神」しかり、はたまた石ノ森章太郎の「墨汁一滴」しかり―このような紙誌の名を挙げるのは差し出がましいわけですが、スモールメディアの持つ魅力は、ささやかであることそのものにある。そんな風にも直感します。
 気楽に、気軽に、と唱えながら始めた個人誌は、予想外に定期的に、順調に巻を重ねてしまいました。今後は初心にかえり、適切ないい加減さを保ちつつ、稲庭うどんのように細く長く続けていく所存です。

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