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いし

豊田市美術館の「ねこのほそ道」展にて中山英之さんと砂山太一さんによるいしの作品を見た。
竹尾ペーパーを発端とした「かみのいし」は元々知っていたし、中山さんの2019年ギャラリー間での展示「,then」においても展示されていたものの、そこまで意識を注力して見られていなかった。
(ここでは短編映画がメインであったことに加え、その他ドローイングや模型など盛りだくさんだったのでついつい建築作品に目を奪われ…)
今回は中山さんと砂山さんが作家としての参加であったことから、いしは作品として、谷口吉生氏設計の背筋が伸びるプロポーションの展示空間に置かれていた。
常に意味を求められる建築家という職業からこの時ばかりは離れられるよう、意味のないものをつくりたかった、という思いの上に生まれた紙でいしを作るプロジェクトは、紙からアップデートして木を使用した「きのいし」に加え、布を使った新たないし、「ぬののいし」が新お披露目であった。

「きのいし」展示風景

意図的に変更できるスケールを除いて、紙、木、布とマテリアルが更新されることで、変化することは厚みと質量、表面のテクスチャであるとすると、今回の展示はその差異が見て取れて面白い。

例えば「きのいし」はプリントされたJIS規格の合板で構成されており、紙よりも明らかに硬い表面となって1歩石に近づいているが、表面の平滑さや艶により、あくまでもプリントされた合板としてふるまっている。
これらは硬く厚みを持ったものとして、人が座れる程の強度を獲得しているけれど、同時にその内部が空洞であることは持ち上げなくても認識でき、その中にどのような内部空間が広がっているのだろうと想像する。

一方の「ぬののいし」は、実際の石とは対極的な素材であるけれど、布でいしを成立するために、布の裏面は透明の塗膜の厚い塗料を塗布することで布自体に厚みを与え強度をもたらしている。
また、そこに無数のドットを設けて三角形を形成し、塗料が染み込まないエリアを作ることで柔らかく変形しやすい部分が作られていて、パリパリとした触覚の不思議な表面性を持っている。
このような慎重な検討を重ねられた布は、通常の布よりも自立性を持ち、多面的な形態に留まろうとするが、同時に布であることもやめない。
そして人やものにかけられることで初めて石らしい姿になる。

ちなみに、会場の端には「きのいし」と「かみのいし」が混ぜこぜで展示してあり、遠目で見たら同一素材に見え、近づくとその表面性から厚みが想像でき、異種共存していることにはっとした。

「きのいし かみのいし」

これらのいしの自立性には、もちろんスケールも関係している。
(中山さんと砂山さんのトークはむしろスケールに重きを置いた内容だった。)
砂、砂利、岩、とスケールを持たない石は、様々にスケールを操作することができるのだ。

「きのいし」は人が座れるくらいの大きさであったり、何かものをおけるくらいの高さであったりして、家具らしくふるまうがやはりいしであるし、「きのいしの家の建築模型」は前述した「きのいし」より小さいけれど、それが建築模型であることから構造体としてのいしの縮小である。

ちなみにこのいしを水平なスラブで挟み込んだ空間に、どこかバルセロナパビリオンを思わせる雰囲気を感じながら模型を覗くと、ミースの椅子がそっと置いてあった。
ちゃんと光るダウンライトも仕込んであるし、「きのいし」で構成されているのは建築基準法に準ずる為であることからも、しっかり建築模型であることがわかる。

「きのいしの家の建築模型」

このように、いしは様々な素材やスケールで打ち出されても石のようにみえる。
中山さんの言葉を借りれば、石はどこまでも石であろうとする。
けれど彼らが作ったいしは、その表面において、あくまでその素材に素直であろうとしている。
このことに、20数面の面でできた多面体は、それらが単なる石を模したものではなく、様々な素材によって獲得した表面性を帯びながら、新たなかたちと意味を持ち始めたのだと感じられた。

ちなみに展示された場所は、豊田市美術館の中でも吹き抜けを持つ1番大きな気積を持つ空間で、石の高さの対比も面白い。
(2階から見ると石の配置図を見ているような)
いし達が置かれる場所もまた意味を持つ1つの要素であったりするのかもしれない。
このような、石であろうとしながらも石ではないことを知覚させるいしの姿は、どこか愛らしくさえある。

へたっとなっている「ぬののいし」

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