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「幸せに、なりたいっすね、」と笑う君


「愛がなんだ」という映画を観た
上映最終日に映画館に滑り込みひとりで、観た。

予想していた期待をあっさりと下回ったこの映画についてひとつだけ激しく心揺さぶられたシーンがある。
きっと私は、この映画はあまり響いちゃダメなんだと思う。むしろ響かなくていい。響かないことこそが価値であり勝ちなのかもしれない。“つまらなさ”を与えるためにできた映画なのかもしれない。
この映画は万人受けしてはいけない。万人に認められていい映画ではないと私は強く思う。だってこの映画が万人に受け入れられてしまったらこの世界はあっけなく終わる。黒に塗りつぶされてぺしゃんこになって終わってしまう。


終始山田テルコをどうしようもないと思っていた。
葉子とテルコが対峙して言い合うとき、2人のセリフが容易に想像できてしまったのが残念であり、想像出来てしまった自分も自分だなと。
どうしようもないこの2人のどうしようもない感情を知ってるということは、いつかの私もどうしようもなかったのだと言われてるみたいだった。

結局人間はないものねだりで生きている。ないものねだりで人を好きになるし、人を嫌いにもなる。目の前にあるものをちゃんとまっすぐ見つめて大事にできたのなら幸せになれること知っているのに。遠くにあるものに手を伸ばしてしまったら、手前にあるものたちをぐしゃぐしゃに踏み潰してしまう。テルコも守もすみれも葉子もないものねだりをしすぎたんだ。

その中で唯一、強く、強く、生きようとしたのは中原青だけだ。葉子に振り回され続ける自分がどうしようもないやつなのだと気づけたのは、彼だけだった。
都合のいい男扱いされてそれをわかってて応えていたけど、自分がそうやって応え続けるから都合のいいままなんだと気付いて、


「あの人が、俺じゃなくて誰でもいいのがつらいんです。俺、本当に葉子さんのこと好きなんすよ。」


“だから、離れます”という意味を込めてこの台詞を言った彼。この映画の中で中原青だけが強いと思った。

諦めることに1歩進めることが出来た彼が誰よりも強いよ。
「幸せに、なりたいっすね、」って苦しそうに笑った中原青が私にはすごくすごく眩しかった。

中原青をぞんざいに扱う葉子も、名前のない中途半端な関係を続ける守も、必死に守にしがみつくテルコも早くバラバラになってしまえばいいのに。

こんな人らにハッピーエンドが待ち受けているのならそれはもうないものねだりをやめた時しかない。このまま平行に進んだって何も変わらない、何も終わらないし始まらない。そこにあるのは絶望だけだ。


愛って、自分を見失うためのものじゃないだろう。
自分を愛し続けるためのものだろう。だから早く気付いて。





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